ある男

ある男(7)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 城戸が、谷口大祐のかつての恋人だというとうすずの許を訪ねたのは、年が明けて、ようやく仕事も落ち着いてきた二〇一三年一月末のことだった。

 朝から小雪がちらつく寒い日だったが、幸い、午後になると晴れ間が覗いた。

 恭一から聞いた美涼の電話番号は既に不通だったが、ウェブデザインの仕事をしているというので、関連語句と併せて検索すると、フェイスブックの彼女のページに辿り着いた。連絡して事情を説明すると、ほどなく返信があった。戸惑っていたが、大祐のことは心配している様子だった。フリーランスで働いていて、夜は新宿荒木町の知人のバーを手伝っているとのことで、出来れば店に来てほしいと言われた。真面まともに話が出来る場所だろうかと心配だったが、二人だけで会うことを、恐らくは警戒しているのだった。


 店は、四谷三丁目駅から歩いてすぐで、細い路地が入り組む古い飲食店街にあった。初めて来たので、少し辺りを散歩してみたが、寿司屋にカレー屋、ドイツ料理の店、スペイン料理の店、割烹にとんかつ屋と、飲み屋だけでなく、美味そうな店が色々とあった。城戸は、弁護士会館の地下のそば屋で腹拵えごしらをしていたが、こんなことなら、ここで食べれば良かったと後悔した。

 事務所の本好きのパートナーに聞くと、かつては、永井荷風の『つゆのあとさき』にも出てくる有名な色街だったらしく、バブルの時代には、近くに一軒、ラブホテルがあり、その建物に、今は出版社が入っているという余計な知識まで披露してくれた。週明けだが、タクシーの往来は頻繁で、人出は少なくなかった。

 雑居ビルの二階に「サニーSunny」という店の看板が出ていた。黄色い、太陽光めいた文字で、夜の店なのに「サニー」とは気が利いていると思ったが、あとで聞くと、ボビー・ヘブの有名な曲から取ったらしかった。

 こぢんまりとした店内には、六人ほどが座れるカウンター席とソファのテーブル席が二つあるだけで、ほど良く薄暗く、城戸が訪ねた時には、レイ・チャールズの古いライヴ・アルバムが流れていた。ソウルの店らしく、壁にはマーヴィン・ゲイのLPや子供時代のスティーヴィー・ワンダーの写真などが所狭しと飾られている。店に着いたのは、八時過ぎだった。

 テーブル席は埋まっていて、カウンターでは、常連らしい男性客が一人、ギネスを飲みながら、コインを使ったマジックの練習をしていた。

「いらっしゃいませ。」と、カウンターの中から声を掛けた女性は、城戸を見ると、ひょっとすると、と察した様子の眼をした。

 スタッズのついた黒いキャップを被っていて、耳にかけた明るめの髪が、華奢な肩に垂れている。なかだかのすっきりとした顔で、グレーのカラーコンタクトの入ったひとみが、唇と共に艶々していた。

 美人だな、と城戸は正直に思った。ゆったりとした黒いニットに、かなりダメージのあるデニムを穿いていて、ソウルというより、ロックっぽい格好だった。

 カウンターの中のスツールに腰かけて、破れた片膝を抱えながら、無精髭を生やした黒いパーカーの五十がらみの男と話をしていた。マスターらしく、こちらは店の趣味通りの雰囲気だった。

「ご連絡しました、弁護士のあきです。」

 挨拶すると、本当に弁護士だったのかという風に、たかという名のそのマスターが、城戸の差し出した名刺を覗き込んだ。

「弁護士さんって、バッジとか、つけてないんですか?」

「ああ、今はもう、つけなくても良くなってるんですよ。携帯はしてますが。」

 城戸はそう言って、バッグから取り出したバッジを示した。マスターは、見せられても、本物かどうかわからないという顔をしていたが、美涼は、

「わー、初めて見た。触ってもいいですか?」

 と、大袈裟ではないが、好奇心を隠さなかった。

「どうぞ、もちろん。」

 あとで知ったが、美涼は元々この店の常連客で、一年前から趣味的に週に二日、カウンターに入っているのだという。城戸は、マスターのパートナーなのだろうと見当をつけたが、美涼の素振りからはよくわからなかった。

 いずれにせよ、今日面会の場所をここにするように忠告したのは高木らしい。城戸に対しては、それ以上無礼な詮索をしなかったが、さんらしく見ているのは確かだった。

「どうぞ。コート、その辺に。──何か飲みます?」

 美涼は笑顔で尋ねた。独特の少しゆっくりとした口調で、声色にはアンニュイな明るさがあった。下まぶたの人懐っこい膨らみが、整った作りの印象をやわらかくしている。

「ああ、そうですね、……じゃ、シメイの白を。」

 水というわけにもいくまいと、城戸は、手間のかからないものを注文した。一口飲んでから、早速話を切り出した。

「メールでも書きましたけど、谷口大祐さんの件で。」

「まだ行方はわからないんですか?」

「ええ。──この写真の人、ご存じですか?」

 城戸は、身許を偽って里枝と結婚生活を送っていた〝X〟の写真を見せた。

 美涼は、手に取ってしばらく見ていた後、首を振ってテーブルに戻した。

「谷口大祐さんじゃないですか?」

「違います。──この人が、ダイスケになりすましてたんですか?」

「そうです。」

「顔も全然違いますけど、背格好からして。……この人、あんまり大きくないでしょう、きっと。ダイスケはわたしよりちょっと大きいくらいだったから、……これくらい? 172センチくらいだったかな。」

「じゃあ、見覚えのない人ですか?」

 美涼は、準備しておいた茶封筒を手渡して、

「ダイスケの写真、一応、持ってきました。わたしとつきあってた頃だから、もう十年以上前ですけど。」

 と言った。中には三枚の写真が入っていた。

 谷口恭一は、弟の近影を一枚も持っていなかった。世代的に若い頃の写真が少ないのは仕方がないが、成人後も、不仲のせいで、デジカメで撮り合うようなことはなかったらしい。彼からは、古い家族写真を一枚、見せられていたが、そこに写っていた小さな谷口大祐の横顔と、美涼と向かい合う彼の表情はほとんど別人だった。

 いかにも、恋人が向けたカメラの前で、はにかみつつじっとしている様子で、その時の美涼の表情まで目に浮かぶようである。そしてやはり、彼は〝X〟には似ていなかった。

「よかったらどうぞ、それ。もしお役に立つなら。……わたしも、もう十年以上連絡取ってないし、ダイスケの今の人間関係とかは、全然、知らないんです。」

「そうですか。お兄さんの恭一さんが、あなたなら大祐さんの連絡先を知ってるんじゃないかっておつしやるんで。」

 美涼は、グラスに氷を入れて、チンザノ・ロッソを注いで一口飲み、眉を顰めた。

「ダイスケのことは、高校時代から知ってます。つきあったり、別れたり、……長かったから、それででしょ。」

「じゃあ、恭一さんのことも、よくご存じなんですね?」

 当然のことを訊いたせいか、美涼は、カウンターの中の何かを気にしながら、ええ、と頷いた。そして、改めてこちらを向くと、だから? と問い返すような目をした。

「兄弟仲は、悪かったんですか?」

「ダイスケは、……恭一くんのこと、好きだったと思いますよ。対照的な兄弟でしたけど、高校生くらいまでは、仲も悪くなかったし。」

 そう言うと、美涼は何か口にしかけたことを躊躇ためらって、そのまま口をつぐんだ。城戸はそれに気づいたが、恐らくは別の方向に話頭が転じたのに従った。

「兄弟っていうより、親の問題なのかなと思いますけど。……よくある話ですけど、どっちが家を継ぐかで、両親の考えが揺れたんですよ。恭一くんが家業を継がないって反発してたから、ダイスケを保険にしてたんです。だったらもう、ダイスケに継がせてあげればいいのに、恭一くんが心変わりするなら、いつでもって感じで、曖昧な態度を取り続けてましたから。ダイスケの人生も宙ぶらりんになるでしょう?」

「大祐さん自身は、家を継ぎたがってたんですか?」

「継ぎたがってました。旅館が好きでしたから。伊香保温泉では、老舗のけっこう有名な旅館なんです。」

「そうらしいですね。サイトを見ましたけど。新館は今風ですけど、本館は格式のある立派な建物ですね。」

「あの新館が恭一くんの趣味ですよ。」美涼は、皮肉めいた苦笑を浮かべた。「個室に全部、露天風呂がついてて、ベッドからそれが丸見えで。部屋が一つ一つ、完全にプライヴァシーが守られるようになってて、おしゃれな内装だけど、なんとなく卑猥で。」

 城戸は、その最後の一言に吹き出して、これまでとは違い、愉快にビールのグラスを傾けた。ごくりと喉を鳴らすと、また笑いが漏れた。美涼もつられて、おかしそうに肩を揺すって笑った。

「ま、確かに家族旅行向きじゃないでしょうね。」

「高級なラブホテルですよ。何年か前に、あそこでどこかの女子アナが、不倫旅行をスクープされたことがありましたけど。」

「あー、……伊香保温泉の……あったなァ、そんな話。あれか。……そう言えば、検索した時も、なんか出てきたな、そういうのが。ちゃんと見てなかったけど。」

「恭一くんは、自分で散々遊んできたから、かゆいところに手が届くんですよ。カップルがああいう温泉旅館に行く時に、何を求めてるか。ダイスケは真面目だから、そういうことがわからないんです。新館は成功してるみたいですよ。震災の時も、被災者を受け容れて評判になってましたし。」

 美涼は、そんなふうにかつての恋人の記憶を呼び起こしながら、懐かしそうな、しかし少し憐れむような微笑をよぎらせた。

 城戸は、黙って聴いていたが、ビールでは物足りなくなって、ウォッカ・ギムレットを注文した。

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文藝春秋
2018-09-28

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