城戸と妻の香織との馴れ初めは、「知人の紹介」ということになっているが、その場所は、とても人に詳細を語れないような軽薄な飲み会だった。空元気で手を叩いて笑い合う、陰に陽に淫猥な会話の中で、彼らは、ほとんどすれすれのところで、互いの存在を見出したのだった。
城戸は、そのことを思い出す度に、こんな生真面目な夫婦には、もっとその未来に相応しい出会い方があったのではないかと、自嘲気味に考えた。昨年の東日本大震災以来、彼らは完全にセックスレスになっていたが、それもまた、回想に皮肉な苦みを添えずにはいなかった。
事実、彼らの間で、この出会いの日が振り返られたことは、その後ただの一度もなく、人に「知人の紹介」と繰り返し語っているうちに、いつか自分たちでも、半ばそう信じかけていた。
香織は、横浜に古くから住んでいる裕福な歯科医の娘で、四歳年上の兄は歯科ではなく内科医になって、最近、父の医院を改装して開業したところだった。保守的な家庭だが、寛大で、家を買う時には頭金を大分、手伝ってくれた。
城戸は、結婚の許しを請いに行った際には、義父から「在日といっても、三代も経てれば、立派な日本人だ。」と笑顔で迎えられた。彼は、そのいかにも悪気のなさそうな歓迎の言葉に、ただ「よろしくお願いします。」と頭を下げただけだった。
義母は、韓流ブームの頃には、恐らくは気遣いから、何かにつけて韓国のことを尋ねたが、ハングルも読めない彼が、ほとんど満足に答えられないことがわかってからというもの、もう何も言わなくなった。
香織の家族との間で、城戸が自分の出自のことを意識したのは、東日本大震災後に、メディアで何度か、関東大震災時の朝鮮人虐殺が言及された時だった。
彼は迂闊にも、この時初めて、横浜が「朝鮮人の暴動」というデマの重大な発生源の一つだったことを知った。そして、不意に義父に言われたことを思い出して、あれは何か含みのある言葉だったのだろうかと考えた。
香織の祖父は、今はもう施設に入っているが、年齢的には幼い頃に関東大震災を経験しているはずだった。もうとっくに亡くなっている曾祖父なら、壮年の男だったろう。横浜は壊滅的で、市街地の八割が焼失したと言われるが、その混乱に乗じて発生したあの惨たらしい暴力の渦中で、彼らはどうしていたのだろうか。……
城戸は勿論、そんなことを義父母に尋ねたりはしなかった。香織にも訊かなかった。東日本大震災後、いずれ起きるとされている首都直下型地震について話をすることはあったが、その際にも関東大震災が参照されたことは、ただの一度としてなかった。
『──愛にとって、過去とは何だろうか?……』
城戸は、里枝の死んだ夫のことを考えながら、ほとんど当てずっぽうのように自問した。
『現在が、過去の結果だというのは事実だろう。つまり、現在、誰かを愛し得るのは、その人をそのようにした過去のお陰だ。遺伝的な要素もあるが、それでも違った境遇を生きていたなら、その人は違った人間になっていただろう。──けれども、人に語られるのは、その過去のすべてではないし、意図的かどうかはともかく、言葉で説明された過去は、過去そのものじゃない。それが、真実の過去と異なっていたなら、その愛は何か間違ったものなのだろうか? 意図的な嘘だったなら、すべては台なしになるのか? それとも、そこから新しい愛が始まるのか?……』
城戸の妻は、慶應を出ていて、金沢出身の彼とは違い、生まれ育った地元であるだけに、中学や高校時代の友達とも未だにつきあいがある。子供の頃の思い出も、本人から色々と聞いていて、よく知っていたが、それらを「嘘」だと疑ったことは、当然のことながらなかった。
妻がもし、赤の他人の人生を自らの「過去」として語っていたとしても、城戸は信じたに違いない。そして、彼女のことを、そういう人間だと理解したはずだった。寧ろ香織の方こそ、遠方の城戸の過去を疑うことも出来たはずが、在日三世であるという事実の早々の〝告白〟は、彼の正直さに対する信頼の根拠となっていた。
どこかで矛盾に気づくとするなら、それは、香織の過去を知る者──昔馴染みや親族──と顔を合わせる時であって、「谷口大祐」のように、見知らぬ土地で、家族とも縁を切って生きていたなら、探偵にでも頼まない限り、確かめる術もない。そういう事情の人間なので、SNSは一切やっていなかったらしい。
いや、「谷口大祐」ではないのだ、と、城戸は混乱しかけた頭を整理するように胸の裡で呟いた。里枝の夫は、谷口大祐になりすましていた別のある男であり、職業的な癖で、ひとまずは〝X〟と呼ぶことにした。
城戸は、里枝から〝X〟の話を聞いて以来、その存在に四六時中つきまとわれていた。丁度、頭の中で止まらなくなってしまった何かのメロディのように、歩いていても、電車に乗っていても、家族と食事をしていてさえも、〝X〟のことを考えているのだった。
こういう現象を何と呼ぶのだろうか? 音楽のことは、「耳の虫」と言うらしいが。……
人生のどこかで、まったく別人として生き直す。──そんな考えは、これまで城戸の心をただの一度も捉えたことがなかった。勿論、十代の頃には、あんな人間になりたい、こんな人間になりたいと、自分とは違う誰かに憧れることがしばしばあった。嫉妬と共に、彼が片思いしていた少女が愛していた少年になりたいと煩悶したこともある。しかしそれらは、いずれも、他愛もない夢想に過ぎなかった。
彼は、今日一日、何度も自分に言い聞かせたように、今のこの生活を恵まれていると感じている。仕事柄、人より世間の不幸に接する機会は多く、とりわけ、刑事事件では、内容も背景も、ほとんど〝隔絶された世界〟とさえ感じられるほど悲惨なものも少なくなく、自分の人生が、今、そうではないことの意味をよく考えさせられた。
自分は今、幸福なのだ、と彼はまた胸の裡で呟いてみたが、それは、またぞろ昂じてきた妙な胸騒ぎに対する、少し苛立たしい制止の声だった。
何もかもを捨て去って、別人になる。──そうした想像には、なるほど、蠱惑的な興奮があった。必ずしも絶望の最中だけでなく、きっと、幸福の小休止のような倦怠によっても、そんな願望は弄ばれるのだ。そして、警戒しつつ、それ以上、自分の心を深追いすることはしなかった。
もしそのなりすましが事実なら──警察がわざわざ立件するかどうかはともかく──、〝X〟は、公正証書原本不実記載を始めとして、幾つかの罪を犯していることになる。恭一の主張通り、殺人事件などという話になれば、刑事事件が得意な事務所の同僚にでも相談するしかないが。……
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