ある男

ある男(5)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 城戸あきは、東急東横線で、東京から自宅のある横浜まで帰る道すがら、ドアの傍らに立って、ずっと考えごとにふけっていた。

 渋谷から運良く座れたものの、近くに妊婦がいるのに気づいて席を譲った。コートを羽織ってはいるが、もう八ヶ月くらいでは、という様子だった。

 さして混んでいるわけでもなかったが、彼女に気を留める乗客は一人もいなかった。お腹の子供となると、いよいよ存在していないかのようで、彼がもし、二人に席を譲ったと言ったならば、なぞなぞか何かのように、皆で顔を見合わせて首を傾げそうな雰囲気だった。

 妊婦は多摩川駅で降り、すれ違い様に改めて城戸に会釈した。「ありがとう。」と、声にはほとんど出さず、ただ口の動きだけで伝えて、共感の籠もった合図のような目をした。城戸は、覚えずそれに呼応して、「お気をつけて。」と、知り合いにでも言うように声を掛けた。

 彼女と交わした微笑が、心地良い余韻を残した。そして、このささやかなやりとりをまったく知ることのないお腹の子供のことを考えた。〝彼〟なのか〝彼女〟なのかはわからないが、とにかくあの子が無事に生まれて、成長して行くまでには、こうした無数の、匿名の善意が必要なのだった。そして、自分がその一つになり得たことに慰めを感じた。

 城戸の周りでも、中年の鬱病は蔓延しているが、いつ陥るやもしれない、その底なしの自己嫌悪に備えて、常日頃から、自分をさほど酷い人間とも思わずに済むための証拠集めに努めるべきなのだと、先日も事務所の同僚たちと冗談半分に喋っていたところだった。

 窓の色はビル群を抜ける度に夕暮れに染まってゆき、地平線にけ残った最後の光が尽きるのは、うっかり見逃してしまうほど速かった。

 ガラス窓に映った彼自身の姿が濃くなった。視線を外すと、彼は、依頼者の谷口里枝の境遇に、やるせない気持ちで思いを巡らせた。


 彼女の離婚調停の代理人を引き受けたのは、もう八年近くも前の二〇〇四年のことだった。

 当時は夫のよね姓を名乗っていて、一年がかりの離婚調停の末、旧姓の武本に戻ったところで、彼の仕事は終わった。その後は連絡も絶えていたので、先月、メールを貰った際には、彼女の姓が「谷口」に変わっていたために、最初は誰かわからず、気づいてから、心の中で祝福した。

 ところが、電話をもらって話をしてみると、再婚相手は既に亡くなっているらしく、しかも、「谷口大祐」という名のその夫は、死後、別人と判明したのだという。つまり、何者かが「谷口大祐」という人物になりすまして里枝と結婚生活を営み、子供までもうけていたのである。「谷口大祐」は、単なる偽名というのではなく、戸籍上、実在する人物らしい。

 そんな話があるのだろうかと、城戸は疑った。名前を偽って、身許を隠すくらいのことは、別段珍しくないだろう。彼は、高校時代に日本国籍に帰化した在日三世なので、本名を伏せたい人の事情は、多少は理解していた。

 しかし、架空の誰かではなく、実在の他人になりすますというのは穏やかではなかった。

 それも、ただ勝手に名乗っていたのではなく、婚姻届も死亡届も出していて、その都度、役所は戸籍により、彼の法的な同一性を確認しているのである。運転免許証も健康保険証もあり、それで車を運転し、病院にかかり、年金も滞りなく支払っていた。あらゆる公文書が、死んだその男が「谷口大祐」であることを証明していて、群馬県の実家について語った本人の過去も、矛盾はないらしい。それでも、顔は違っていて、一周忌後に訪ねてきた谷口大祐の実兄が、写真を見て、絶対に弟ではないと言い張っている、というのである。

 ──一体全体、どういうことなのだろうか?……

 城戸は、弁護士として自分に出来ることは何だろうかと考えながら、ひとず、相続関係の整理を手伝うことにして、この日、東京地裁で別件の裁判期日を一つこなしたあと、渋谷のセルリアン・ホテルのラウンジで、谷口大祐の実兄だという谷口恭一に会ってきたところだった。


 恭一は、群馬県の伊香保温泉の旅館の四代目で、パーマのかかった髪を毛足だけ跳ねさせるようにウェットに撫でつけていて、その整髪料なのか香水なのか、会うなり、挨拶よりも先に、むっとするような匂いが飛びかかって来た。

「モテる中年の極意!」といった男性誌のコーディネートを地で行くような服装で、商談でちょくちょく上京しているらしく、今日もこのあと、東京に住んでいた頃の友人と、六本木で「旧交を温める」のだという。城戸は、恭一が、その「旧交を温める」という言葉を、どことなく卑猥なニュアンスで口にして、ニヤッと含み笑いをしたのに驚いた。

 旅館のHPには〝美人女将おかみ〟として妻の写真も出ていたが、東京に昔馴染みの愛人でもいるのか。──どうでもいいことだったが、初対面の相手方の弁護士に、「わかるでしょ?」と言わんばかりにそんなことをほのめかす神経は、なかなかのものだった。

 しかし、雑談めいた自己紹介はともかく──或いは結局、それも含めて──、恭一の話は率直で、ビジネスライクで、躊躇ちゆうちよがなく、言っていることは、恐らく嘘ではないだろうという感じがした。つまり、里枝が結婚していた相手は、本当に「谷口大祐」ではないらしかった。

 恭一は、こちらは腹を割っている、という、少しわざとらしいポーズで身を乗り出すと、周りを気にしながら声を潜めた。

「大祐は、生きてるんですか? 入れ替わったその男に、どっかで殺されてるんじゃないですか? あり得ますよ。あの奥さん、うちの群馬の家族の写真まで持ってたんですよ。昔、大祐が撮ったヤツ。気持ち悪い。……ええ、警察には一緒に行きました。ただ正直、うちも客商売だから、あんまり表沙汰にしたくないんですよ。あの奥さんも、話してる通りなら被害者なんでしょうけど、生命保険も受け取ってるし、僕は調べてみるべきだと思いますけどね。」

 職業柄、家族の不和には慣れていて、自分にも弟が一人いるので、中年の男兄弟の複雑さは、城戸にも思い当たるところがあった。しかし、生死を気にしている割に、恭一の弟への態度は酷薄に感じられた。

 城戸は、里枝から聞いていた、谷口家の肝臓移植を巡る騒動についても尋ねてみた。

「違います、全然。」

 恭一は、話を遮るようにして不快を露わにした。

「そのなりすましてた男が、勘違いしてるんですよ! ネットか何かで調べたんじゃないですか? それか、大祐がそいつに話をねじ曲げて喋ったか。──それは、オヤジには家族全員、長生きしてほしいと思ってましたよ。大祐だってそうですよ。当然でしょう? けど、あいつにドナーの無理強いなんて、絶対してないですよ! するわけないじゃないですか。あいつが自分から進んでドナーになったんですよ。それを、あとになってヒネくれてグチャグチャ言って。いつもそうですよ! 旅館だって、あいつが継ぎたいっていうから、僕は最初、譲ったんですよ! 正直、田舎の温泉旅館なんて、興味ありませんでしたから。けど、あいつじゃやっぱりどうしようもないって両親に泣きつかれて、シブシブ、僕が実家に戻ったんです。ええ。それを、大祐はヘンに逆恨みしてるんですよ。やっぱり長男の方が大事なんだとか何とか、ガキみたいに僻んで。バカでしょ?──まあ、先生にこんなこと言うのも何ですけど、正直、あいつにはウンザリなんですよ。どれだけ家族に迷惑をかけてきたか。突然失踪して、オフクロがどれだけ心配してるか。殺されてるならまだしも、グルになって、ヘンな犯罪にでも加担してたら、うちの旅館も終わりですよ!」

 恭一は、感情的になりながらも、辛うじて怒鳴らない程度に抑制していて、最後は身振りだけを空回りさせた。そして、「いや、そりゃ心配してますよ、家族だから。……けどもう、……」と、仕舞いまで言う気力もない様子で溜息を吐いた。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ある男

平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

コルク

この連載について

初回を読む
ある男

平野啓一郎

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。 弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って1...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません