ある男

ある男(4)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 肩書きはどうであれ、実質的には自分が会社を支えなければならないことはわかっていた。けれども、そのために兄との関係がうまくいかなくなるのが怖かった。なぜそこまで「長男」というだけで愛されるのか、昔から疑問だったが、今でもわからない。自分は兄を愛していた。けれども、兄の方はそうでもなかった。

 数年後、父に肝臓ガンが見つかった。七十一歳だった。かなり進行していて、助かるための唯一の方法は、移植手術だったが、それも可能性は高くないと告げられた。脳死患者からの提供を待つ余裕はなく、親族からの生体肝移植が唯一の方法だった。検査の結果、兄は脂肪肝で不可能だった。自分は適合的で、肝臓の状態も良かった。皮肉なことに、兄のようには不摂生でなかったから。──

 生体肝移植は、提供する側にも後遺症のリスクがある。死ぬこともないわけじゃない。父は、生まれて初めて自分に頭を下げ、「親孝行」してほしいと手を握って泣いた。母と兄は、父に長生きしてほしいと言ったが、直接、父の願いを叶えてやるべきだとは言わなかった。ただ、そんなことはしなくていいとも言ってくれなかった。父に翻意を促すこともなく、自分のいない場所で、いつも三人だけの話し合いが持たれていた。見舞いに行って、その場面にくわすのは気まずかった。時間がなく、焦っているのはわかっていた。

 最終的に、自分は生体肝移植に同意することにした。父にもっと生きていてほしいというのは、自分も同じだったし、母や兄の気持ちもよくわかった。だから、自分から進んで、気持ちよく提供する決心をした。

 父は、本当に喜んでくれた。父が「ありがとう。」と言ってくれたのは、後にも先にも、その一度きりだった。兄は、父の将来の遺産は、弟のお前に全部譲ると言った。母もうれしそうだった。

 しかし、残念ながら、父のガンの進行は予想以上に速く、結局、自分が移植の同意を悩んでいた間に、もう手遅れの状態になっていた。

 父は、恐ろしく腹立たしげな、ほとんど憎しみをたたえたような顔で死んでいった。

 家族みんなで悲しんだが、母も兄も、無意味になった自分の決断に対しては、金輪際、優しい言葉をかけてくれなかった。

「僕はやっぱり、ほっとしました。父の命を助けたかったけど、調べれば調べるほど、恐くなってましたので。……それで、父の死後、自分の中の何かが、もう決して元に戻せないくらい、壊れてしまっていることに気づいたんです。だから、……家族とは一切縁を切って、町をあとにしました。できるだけ遠くに行きたくて、……もう、決して会うつもりはありません。家族の話をするのは、これっきりです。」

 大祐の打ち明け話を、里枝は途中で口を挟むことなく、最後まで黙って聴いた。彼がこんなへんな町に辿り着いて、よりにもよって林業のような危険な重労働に携わり、休日は独り絵を描いて過ごし、半年以上もかけてようやく、自分に「友達になっていただけませんか。」と告げたその心中を想像した。

 彼の境遇に同情し、友情から、自分も何か、彼の告白の重みに釣り合う秘密を打ち明けねばならない気持ちになった。そして、自分が子供を病気で亡くしていること、その治療を巡る対立が、離婚の原因だったこと、帰郷を決めたのが続け様に起きた父の死であったことを話した。

 大祐は、じっと里枝を見つめていたあと、少しうつむいて、微かに二度頷いた。店の客が減ってゆき、鰻重のおぼんが下げられた。二人とも黙っていた。やがて大祐は、勇を鼓したように腕を伸ばして、テーブルの上の里枝の手を甲から握った。優しく覆った、と言った方がいいかもしれない。思いがけないことだったが、里枝は、そのチェーンソーの仕事でまめだらけの掌のぬくもりに慰められ、うれしいと感じた。彼がしなければ、自分の方から同じようにしていたかもしれない。

 彼女はそのまま動かなかった。自分の人生に訪れている一つの変化に、身を委ねるべきかどうか、プラスチック製の大分くすんだ透明のコップに目を落としながら、しばらく考えていた。


 結婚後、大祐は里枝の実家に住み、二人の間には女の子が一人生まれ、「はな」と名づけられた。大祐が山で事故に遭ったのは、長男の悠人が十二歳、花が三歳の時だった。

 病院に駆けつけた時、大祐は既に事切れていた。危険な仕事だけに、万が一の時の話は何度かされていたが、群馬の家族には絶対に連絡しないでほしい、死んでからも決して関わってはいけないと言われていた。

 大祐の死後、一周忌を終えるまで、里枝はこの言葉を守ったが、母とも相談して、やはり家族には手紙で知らせることにした。遺骨はまだ、手元に置いたままで、墓をどうすべきかも相談したかった。

 本当なら、生きていた間に、自分が夫と家族とを和解させてやるべきだったのかもしれないと、彼女には悔いる気持ちもあった。やり残したことの多い、あまりに唐突な死だった。


 大祐の兄・谷口恭一きよういちは、手紙を受け取るとすぐに宮崎まで飛んで来た。

 自宅の玄関で、レンタカーから降りた恭一を出迎えた里枝は、写真でしか見たことのなかった彼の印象が、思い描いていたのと違うのを感じた。

 白いズボンに紺のジャケットを羽織っていて、どこかのブランドの大きなロゴのベルトをしていた。大祐に顔が似ていないことは知っていたが、彼が語っていたような、人はいいけれどだらしないといった雰囲気ではなく、むしろ、取っつきにくい自信家の風貌だった。

 里枝は、「遠いところを、ありがとうございます。」と挨拶をしたが、親族として打ち解ける風のその態度に、恭一は何か怖いものに触れたような表情をした。そして、「暖かいですね、こっちは。」と言いながら、自分と同じ谷口姓を名乗っている彼女をしげしげと眺めた。彼の胸元にぶら下がっているサングラスに、困惑した笑みを湛えた母と自分の姿が映っているのを、里枝は目に留めた。

 母が先導して居間に通したが、昼のなかには似つかわしくない香水の匂いが、廊下を歩く彼のあとにぞろぞろと付き従って、里枝の実家の田舎らしい生活臭を一斉に振り返らせた。恭一は、ソファに腰掛けながら、落ち着かぬ様子で、低い天井や写真が飾られた食器棚に頭を巡らせた。「こんなところで死んだのか。……」とでも、うっかり口に出しそうな顔だった。

 大祐が、いつこの町に来て、どんな生活をしていたのかは、既に手紙で伝えてあった。コーヒーを出すと、それには手をつけず、

「ご迷惑をおかけしました。」と言った。

 里枝にとっては、予期せぬ言葉だった。

「いえ、……お葬式にお呼びもせずに、すみませんでした。」

「葬式代、墓代、その他、必要な分を請求してください。」

「いえ、それは、大丈夫です。」

「あいつは、僕のことを悪く言ってたでしょう?」

 恭一は、タバコをポケットから取り出しかけて止めた。里枝は、その彼の顔を数秒見ていたあとで、

「昔のことは、あまり話しませんでした。ただ、家族とは、……」

「会いたがってなかったでしょう? いいんですよ、わかってますから。昔から、劣等感の塊みたいなヤツで、ひがんでばかりいるうちに、性根がねじ曲がってしまって。僕とはあわなかったんですよ、元々、性格的に。家族って言ったって、そういうことあるでしょう? なんでもっとまともな生き方ができなかったのか。こんなとこで、木の下敷きで死んだなんて、……最後まで親不孝ですよ。オフクロにもまだ話してないんですよ。」

 里枝は、表情にこそ出さなかったが、その口調にも内容にも反発した。悲しみを紛らせるために、わざと乱暴な言い方をしているとも思えなかった。彼女は、大祐の物静かな優しさを心から愛していたので、そんな風に見えていたというのは、まったく恭一自身の問題だと思った。そして、夫がどうして、あれほどまでに兄に会いたがらなかったのかを今更のように理解し、何度か連絡を取ってはどうかと促したことを謝りたい気持ちになった。

「子供、いるんでしょ? 大祐の?」

「はい。今はこども園に行ってます。」

「大変でしょう、一人で育てるの。うちも、三人いるんですよ。──女の子、ですよね、確か?」

「はい。」

「姪っ子なんだよな。……顔も見たかったけど、あんまり長居しても何だし。ま、線香だけ上げさせてもらって、今日のところは。」

「そうしてあげてください。こちらです。」

「あ、これ、うちの旅館で作らせてる和菓子なんですけど、ものすごくおいしいんで、是非。和菓子ですけど、お茶でもコーヒーでも、何にでも合いますから。」

 恭一はそう言って、菓子折を紙袋ごと差し出した。


 里枝は仏間に案内して、「どうぞ。」と勧めた。母は、少し離れたところから二人の様子を窺っていた。恭一は、正座をして、しばらく遺影を見ていたあと、「これは?」と振り返った。

「亡くなる一年ほど前の写真です。」

「ああ、……どなたですか?」

「……どの写真ですか? ああ、そっちは父と息子です。」

「息子さん?……あ、いや、そっちじゃなくて、こっちです。大祐の遺影は、ないんですか?」

「……それですけど。」

 恭一は、眉間に皺を寄せて、「ハ?」という顔をした。そして、もう一度写真に目をって、不審らしく里枝の顔を見上げた。

「これは大祐じゃないですよ。」

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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