ある男

ある男(3)

愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。 「ある男」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。 「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!(毎日10時更新)

 もう、あのお客さんは来ないんじゃないかと、里枝は思っていた。そして、そのことを考えると、何となく寂しかった。

 彼に会えないからというわけでは、まだなかった。ただ、あのいかにも孤独そうな人が、結局これで、この町からいなくなるのだろうかと思うと、不憫だった。壊れそうだからと、いつも大切に扱うようにしていたものを、出し抜けに人に触られて、壊されてしまったあとのようなかなしさがあった。

 しかし、案に相違して、彼は翌週、例の如く平日の夕方に独りで店を訪れた。町の人たちから怪しまれていることを、恐らくは彼も気にしていたのだった。

「これを、……」

 差し出したのは、二冊のスケッチブックだった。始終持ち歩いていたせいで、緑色の表紙は、角が白く潰れてしまっている。

 店内に客は他になく、母も出ていて、彼らは二人きりだった。

「持ってきてくださったんですか?」

 里枝の頬には笑みが広がった。

 最初のページから始まるのは、宮崎市の青島一帯の風景のようだった。「鬼の洗濯板」と呼ばれるさざなみのような起伏の磯や青島神社の鳥居、それに、頭上に広がる青空を宛らさながに映したような海原と彼方の海岸線が描かれている。

 里枝は、顔を上げて、固い表情のまま立っている、名前も知らない〝常連さん〟を見た。彼は、微笑ほほえもうとしたようだったが、頬が震えてうまく笑えなかった。

 ページを更にめくってゆくと、いつか話に出た一ツ瀬川やその近くの公園、近郊のダム、古墳群の花盛りの桜、……と、いかにも余所の人が行きそうな観光地から、やはり余所の人だからこそ珍しかったらしい、何の変哲もない場所まで、様々な景色が写生されていた。スケッチだけのものもあれば、色を塗ってあるものもある。

 決して、特別な才能を感じさせる絵ではなかった。しかし、下手というわけでもなく、里枝は、中学生の頃、クラスで一番美術が得意だった男の子の絵を思い出した。

 大抵の人間は、中学生の頃までは、学校の図画工作や美術の時間に絵を描き、その後は、ぱたりと描かなくなってしまう。もし人が、大人になって、唐突に画用紙と絵筆を手渡されたなら、結局は彼と同じように、中学生の頃からまるで進歩のないやり方で描くより他はないのかもしれない。

 しかし、皆はもう描かず、彼は描いているのだった。画技はなるほど、そのままかもしれない。しかし、精神は? 成長にせよ老いにせよ、年齢は今更、こんな無垢を許しはしないのではあるまいか。

 自分と大して歳も変わらなそうな、もう三十代も半ばらしい大人が、こんなに気持ちよく澄んだ絵を、しかも、戯れに一枚描いてみたというのではなく、スケッチブック数冊分も黙々と描き続けている。里枝はそのことに心打たれた。

 この人の目には、世界はまだこんなに屈託のない表情で見えているのだろうか。それと静かに向き合えるというのは、どんな人生なのだろう?……

 十五分ほどかけてじっくりページを捲っていった。彼女は、誰にも邪魔をされたくなかった。今はどんな客にも来てほしくない。そう思っていた。

 やがて、二冊目の終わり近くに描かれた一枚の絵の上で、彼女の目は止まった。

 高校生の頃、毎日、宮崎への登下校で利用していたバスセンターの建物だった。

 今でもしょっちゅう前を通っているが、彼の絵を見ていると、なぜか急に涙が込み上げてきて、そういう自分に動揺した。

 里枝は、ずっとあとになってからも、この時どうして自分が泣いてしまったのかを考えることがあった。

 結局のところ、精神的に酷く不安定だったのだと思うしかなかった。遼と父の死の悲しみだけでなく、帰郷して以来、知らず識らずに募っていた自身の境遇への感傷が、最後のほんのさいな数滴のために、表面張力を破って、あふれ出してしまったかのようだった。

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平野 啓一郎
文藝春秋
2018-09-28

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