プロローグ
今から思えば、私が彼に出会ったのは偶然ではないのかもしれない。それでもその数奇さには違いはないだろう。
むしろ崇高と言わなければならないのかもしれない。彼のお蔭で私は人間の歴史というものを理解したからだ。
「書いてもいいかな」
と問いかけた私に、彼は悪戯っぽい目で応えた。
「いいよ。どうせだれも信じないから」
若き遺伝学者・高山菜月の前に現れた中東系の男
1
突然の電話の音に、美里は驚いて目を覚ました。枕もとの目覚まし時計は、五時を指していた。
「起こした?」
「あれ、まだ乗ってないの」
「ああ、ちょっと気が変わって、一便遅らせることにした」
「一便って?」
「明日の便で帰る」
その日、AJA43便はシリア上空で爆発炎上した。
2
今年のウィーンは暖かだった。
十一月も終わりに近づいているが、まだ、雪も降らない。
高山菜月は、いつものジョギングコースを走っていた。
ウィーンに留学して三年になる。
もう交代の医師も到着しているから、菜月にとってはウィーンで最後の一週間だった。
教授からウィーン医科大学へ留学しないかと訊かれたときは小躍りした。クラシックおたくの菜月にとっては、ウィーンは聖地だったからである。
留学してみたら、研究室は二十一世紀の革命とまで言われたDNAの技術を扱っていた。細胞内の遺伝子操作を自由自在にやってのける、CRISPR(クリスパー)と呼ばれる技法だった。
特に目標があった訳ではないので、誰もやりたがっていなかった染色体に応用してみた。それがすぐに結果を出した。お蔭で、あっと言う間に研究者として有名になった。二十九歳の若さで、国際学会の招待講演を受けるまでになったのである。
母校では女性で初めての臨床教授の誕生が囁かれていた。
菜月は小さい頃から運の良い子と呼ばれていたが、ここでもその本領を発揮することになった。
理科三類に合格した時は、
「女のくせに、運のいい奴だ」
と、同級生にも言われた。
その時はムッとしたが、医学部の先輩に、
「理三はIQだけでなく、運も必要」
と言われて、なんとなく納得したことを覚えている。
ジョギングはウィーンで最初の友達になったエイプリルから習った。
一度始めるとやめられなくなるものである。さすがに毎日走る時間はなかったが、週に二回は走ってきた。エイプリルがボストンに帰ってからは一人で走ることになったが、コースは変えなかった。
ウィーン医科大学は世界で二番目に古い医学校である。もともとはウィーン大学の医学部であったが、二〇〇四年に独立した。大学病院であるアルゲマイネス病院を中心とした大きなキャンパスが、ウィーンの西北に広がっている。伝統的に世界中から留学生が勉強に来ていた。
エイプリルは大学院生、菜月は既に一人前の医師であったが、白人と日本人との差なのか、菜月は五歳年下のエイプリルとやけに気があった。
今はボストンに住んでいるエイプリルであるが、もともとは生まれも育ちもブロンクスの、生粋のニューヨークっ子だった。自分がイタリア系であることに強い誇りを持っていたが、ニューヨーク訛りの英語が正しい米国語であるという主張には、葉月にも少し抵抗があった。
それでも、自由人のエイプリルのお蔭で菜月もウイーンを満喫することになった。
有名なレストランや洋菓子店はほとんど全部制覇した。
観光地は勿論のこと、小さな名もない美術館にもせっせと二人で足を運んだ。
しかし、何といってもジョギングを教えてもらったことが一番だった。
百六十センチにちょっと足らない菜月は、日本人としては小さくはない。
エイプリルもほとんど同じぐらいの背丈だったお蔭で、エイプリルのジョギングスタイルをそのままコピーできた。肩まで届く黒い髪をヘッドバンドで束ねて走るエイプリルは、後ろから見れば日本人のようでもあった。
最初はエイプリルの速いペースについていけなかった菜月だったが、走り込むうちに自分がどんどん健康になっていく実感があった。ある程度走れるようになってからは、何らかの理由で走れないことの方が苦痛になった。
それでも、菜月がジョギングにハマった最大の理由は走ることそのものではなかった。目に映る街並みが与えてくれる心地よさだった。エイプリルと二人で走るウィーンの町は形容がしがたいほど美しかったのである。
菜月の所属する小児科の研究室は敷地の南側のビルにあったが、そこからドナウ運河までは二キロ弱の距離で、ジョギングにはもってこいのコースである。
中ほどのところにリヒテンシュタイン公園がある。
ボルツマン通からシュトルートルホーフ通りに入り、宮殿の表玄関にあるような美しい階段を駆け上がる時が、幸せを感じる瞬間だった。
ただ、今日は少し違っていた。
走り始めてすぐに嫌な視線を感じたのである。
気のせいだろうと走り続けたが、階段を登りながら誰かに後をつけられているような気がしてならなかった。
昨日から神経質になっているのかもしれない。
それでも不安感が拭えない。
菜月は階段を登り切ったところで踵(きびす)を返した。
ほとんど荷づくりも終えてあとは飛行機に乗るだけの状態になっている。
ただ、最後の週となるとどうしても行っておかなければならないと、気持ちがせく場所がいくつかあった。デメルもそのひとつだった。今では日本でもデパ地下の定番になっている洋菓子店だが、ウィーンがその発祥の地であることは言うまでもない。
昨日はデメルの二階で最後のウインナーコーヒーの日だった。
ウィーンの旧市街はインネレシュタットと呼ばれている。かつて城壁と堀とで守られていた地区である。今ではリングシュトラーセと呼ばれる環状道路が取り囲んでいる。
ウィーンを代表するこの歴史地区は、人が安心して歩き回れるように配慮がなされている市街でもある。多くの通りが車両通行禁止とされているのである。それが、この地区の魅力を倍増させていた。
車道としても十分な幅を持った歩行者専用の大通りは、得てして手狭に思われがちな中世ヨーロッパの旧市街を歩く者に荘厳な感情を抱かせる効果的な演出となっている。あちらこちらで遭遇する大きな彫刻と相まって、ハプスブルク家の栄華を印象付けているのである。
例えば、国立歌劇場の広場に設けられたスクリーンを横目で見ながらケルントナー通りに抜ける。途端に、歩行者天国のような自由な空間が広がる。思い思いの服装で行き交う人々からはそれぞれの生活が溢れ出し、地図を片手に辺りを見回す観光客が、少し違った色を添えている。
しばらく行くと、ひっきりなしに客の出入りするスワロフスキーがある。この世界的に有名なクリスタルメーカがオーストリアの企業であったことを思い出す瞬間である。
ケルントナー通りの突き当たりまで来たら、シュテファン大聖堂の尖塔が白く輝いて見えてくる。ハプスブルク家の墓所であり、モーツアルトの結婚式と葬儀が執り行われたことでも名高い教会である。典型的なゴシック建築が時代を感じさせるカテドラルである。
左に曲がってグラーベンに入る。そして、折り返すようにコールマルクトをミカエラー広場に向かって歩く。
少し先の右側に洋菓子店、デメルがある。
ホーフブルク王宮の緑のドームを見ながら店に入る。
目移りするほど可愛いケーキが並んだショーケースの間を縫って奥の階段を登ると、小さな丸テーブルがたくさん並んだカフェがある。デメルの二階である。
そこに一人で腰掛けながらウインナーコーヒーとザッハトルテと名付けられたチョコレートケーキを食べることが菜月のお気に入りだった。
もともとはウイーンで有名な五つ星ホテル、ザッハーで生み出されたというケーキだが、菜月はデメルのザッハトルテの方が好きだった。
次回「中東系の男を振り切り研究室に戻った菜月の前にFBI捜査官が現れた」は10/6更新予定。