神々のfresh(新鮮な)flesh(肉)の喉ごしのタブーのごとくネクターを飲む
「青梅で40度超えたらしいですよね」
タクシーのドライバーの言葉に、わたしは唾を飲み込んだ。イメージとしての渇きが、実際の喉の渇きと響き合い、アスファルトの上で干からびて死んでゆく蜥蜴のように、もうどこにも逃げられない、包囲された囚人のようだった。
「恐竜は隕石で絶滅したらしいですけど、人類は暑さで絶滅するのかもしれませんね」
そう言うと、ドライバーは乾いた声で笑った。
マナーモードにしたケータイが、マツからの着信を知らせる。
「今日行ってもいいですか?」
「待ってます」
わたしは即返信する。
わたしは、いつも待っている。
幸せを、待っている。
ポストに不在連絡票が入っている。
母からだ。
品名の欄に「ネクター」とある。
わたしは、唾を飲み込む。
飲んでもいないのに、あの濃厚な桃の果汁が舌の上に蘇る。
喉が渇いて仕方ない。
体の全細胞がカラカラに渇いているみたいだ。
魂が、渇いているみたいだ。
マツと別れることができない。
この先には何もないのに。
何かが必要な気がする。
それが何かがわからない。
日曜日に、母からのネクターを受け取った。
お中元みたいなものなのだ。
母はネクターがわたしの大好物だと信じ込んでいて、その思い込みを消すことができない。
恐る恐る、わたしは缶のプルタブを開ける。
それはまだこんなに暑くない、二十世紀の夏だった。
小学校からの下校中、大人の男がわたしに話しかけてくる。
「パンツに針が付いてるから、取ってあげるよ」
そこは畑の真ん中を削り込んだような道の途中で、人がすっぽり視界から消えて死角になる場所だった。
異様な雰囲気を感じてわたしは、
「あ、い、いいです……。家に帰ってからお母さんに、取ってもらいます」
ありったけの勇気を振り絞り、わたしは声を出す。
「いいよ、おじさんが取ってあげるよ」
男はわたしのパンツを下げ、舌でわたしの尻をなめる。
わたしは我慢している。動けなくて、立ち尽くす。
「取れたよ」
男は言う。
「ありがとうございます」屈辱という言葉を獲得していなかったわたしは、田舎の町の夏の中でそう言うしかなかった。
男はわたしの何かを読み取ったのだろう。
「おじさん足が悪いんだよ。バス停まで連れてってくれるかな」
「大丈夫ですか?」
わたしは言う。それどころか肩まで貸して。
男を、バス停まで連れていく。
「ありがとう」
男は言う。
「どういたしまして」
ランドセルを背負ったわたしの背中は、汗でぐっしょり濡れていた。
どこまで、媚びていたんだろう、わたしは。
あの頃は、一生あの町にいるんだと思ってたから。
あの町から出られるなんて、想像したこともなかったから。
だから。媚びるしかなかった。
生きるために。生き延びるために。
翌年、わたしは、市から賞状をもらった。
あの男の体験を「売った」のだ。
担任の「何かいいことしたことがあったら言ってください、市から賞状がもらえます」という問いかけに。手を挙げて、一年前の屈辱を売ったのだ。
それを屈辱というのだとはまだ知らなかったけれど。
わたしは、「痴漢」のことは話さずに、「具合の悪くなった人に肩を貸してバス停まで連れていってあげたわたしを称えた」賞状を母に渡した。
勉強すること、いい評判をもらうこと、それがわたしの仕事だった。
だから、賞状をもらえる「ネタ」になったあの男は、むしろありがたかった。
でも、母があまり喜んでいないことも分かった。
自己申告の美談なんて価値がないことくらい、わたしにも分かりきっていた。
自己申告の美談なんて浅ましいことくらい、わたしにも分かりきっていた。
でも、せずにはいられなかった。
ノルマを消化しなければならない保険の外交員みたいに、あるいは飼い主に生きたネズミを持ってくる猫みたいに。
わたしはせずにはいられなかった。
業績で、母から愛されたかった。
わたしは実家を出てから一度も、帰省というものをしていない。それは、あの男がいる町に入りたくないからなのだ。
あの男を探そうと思い付いたのは、母からのネクターを一口くちにしてからだった。
あの男を探して、それでどうする?
けど、急に、あの男を探さなければこの渇きがおさまらない気がして。
あそこから、何かが渇いているようで、あそこから、ずっとなにかが足りないみたいで。
それが何かを確認したいから、あの男を探さなければ。
そんな気がして。
「この頃毎晩、変な夢見るんだよ。
小学生の女の子が、ランドセルを背負ったまま、あおむけの男に馬乗りになってるんだ。なんどもなんども、心臓にアイスピックをぶっ刺してて」
ベッドでマツが言う。
「……死んだ?」
わたしは起き上がる。
「そいつはちゃんと死んだ?」
「え?」
屈辱は、何をもって消化されるのだろう。
「ちゃんと、死んだ?」
「夢だよ、おれの」
確認しなければならない。たとえばこの世の、悪が滅びて善だけが残るという摂理を。
わたしは、冷蔵庫を開ける。
母からのネクターが十一本、神殿のエンタシスのように立っていて、他にはなにもない。
何もかも捨てたい気がする。
何もいらないような気がする。
喉が渇いてしかたない。
粉々の桃源郷を飲み込んで雄雌のないアメーバになる