長年の論争に決着? 邪馬台国はやっぱり畿内にあった!?
ある日、客員教授をしている多摩大学に出勤すると、職員から「佐賀県の男性から、邪馬台国が大和(奈良県)にあった根拠について河合先生のご高説をお伺いしたい」という電話があったと連絡を受けた。
これを聞いて、すぐにピンときた。
数日前、私が出演したBS.TBSの『諸説あり!』(MC:堀尾正明・吉川美代子)が放映された。
「邪馬台国はどこにあったのか」と題して諸説を紹介する内容で、堀尾さんに「河合先生は邪馬台国がどこにあったと思いますか」と尋ねられたとき、「どちらかというと、大和の可能性が高いと考えています」とコメントしたのだ。
佐賀県には、吉野ヶ里遺跡という巨大な弥生時代の遺跡があり、そこを邪馬台国だとする有力な説がある。
おそらく電話をしてきた男性は、わざわざ佐賀県の名を出しているほどだから、熱烈な邪馬台国九州説の支持者で、私の発言を腹立たしく思って連絡をとろうとしてきたのだろう。
「あまりに大人げない人だ」と思うなかれ。
こと邪馬台国の所在地については、明治時代の京都大学(内藤虎次郎の畿内説)と東京大学(白鳥庫吉の九州説)の対立から始まって、 いまも古代史ファンの間で畿内か九州かをめぐってホットな議論が続いているのだ。
その歴史は、野球の巨人VS阪神よりずっと古い。
だからテレビで邪馬台国を取り上げると視聴率が良く、歴史番組では鉄板なのである。実際、『諸説あり!』の邪馬台国回も好評で、その後、何度も再放送されている。
ちなみに、いまも邪馬台国の所在地がわからないのは、すべて『魏志』倭人伝のせいである。
倭人伝は、邪馬台国について記した唯一の書だが、魏から邪馬台国に至るルートがいい加減で、記述のとおりに進んでいくと、日本列島を通り越して太平洋に達してしまう。
邪馬台国は、女王・卑弥呼が三十もの小国をしたがえており、日本国家の成り立ちを知るうえで極めて重要だから、邪馬台国論争はすべての日本史教科書に掲載されている。
けれど近年、そんな教科書の記述に変化が現われてきた。
これまでは畿内説と九州説の両論を平等なかたちで併記していたが、次のような文章が登場したのだ。
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺稿が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)
明らかに畿内説(大和説)に偏ってきているのがわかるだろう。
そして、その根拠が纒向遺跡であることが理解できるはずだ。
纒向遺跡は、奈良県桜井市の北部、三輪山の麓に広がる東西約二キロメートル、南北約一・五キロメートルの地域(面積は約二・七平方キロメートル)。
域内には箸墓古墳など初期(三世紀半ば)の巨大な前方古墳がいくつも集中していることから、ヤマト政権の発祥だと考えられてきた。
ヤマト政権は大和政権(倭王権)とも呼ばれる、日本初の全国政権である。
大王(おおきみ/のちの天皇)を中心とする豪族の連合政権であり、やがて朝廷と呼ばれるようになっていく。
この纒向遺跡に出現した巨大な前方後円墳は地方へ拡大していくが、それがヤマト政権の全国平定の過程だと考えられている。
そんな纒向遺跡で、スゴい発見が相次いでいるのだ。
同遺跡内の箸墓古墳は、昔から卑弥呼の墓だとする伝承があったが、古墳周辺から出た土器の付着炭化物を、国立歴史民俗博物館の研究グループが放射性炭素年代測定法で調べたところ、驚くべき結果が出た。
西暦二四〇年から二六〇年という数値をはじき出したのだ。
これはまさに卑弥呼の活躍していた時期と合致する。
しかも同博物館の春成秀爾(はるなりひでじ)名誉教授は「この時代、ほかに有力者はおらず、箸墓古墳は卑弥呼が生前に築造した可能性が高い」と発表、考古学界はもとより世間も騒然となった。
その前後には、纒向遺跡から卑弥呼時代の大型建物跡や濠跡なども発見された。
また、纒 向遺跡からは、九州から関東におよぶ各地域の弥生土器や朝鮮半島製の壺も出土する。
そのうえ、田畑を耕す鍬(くわ/農具)はほとんど発見されず、土木工事に用いる鋤(すき)が大量に出てくる。
つまり農村ではなく計画的につくられた「都市」であり、ここに大きな政治権力があったと考えられるのだ。