日本への鉄砲伝来は種子島ではなかったかも?

「一五四三年、ポルトガルから来た船が種子島に漂着し、ポルトガル人が新兵器である鉄砲をもたらした」 教科書で習った「鉄砲伝来」についての記述だが、この文章には間違っているところがあるという。高校で27年にわたり歴史教師をつとめ、テレビでもおなじみの歴史研究家、河合敦先生に「逆転した日本史」を聞いてみた。

種子島に鉄砲をもたらしたのはポルトガル人だが、最初とは限らない

 さあ、間違い探しをしよう。
「一五四三年、ポルトガルから来た船が種子島に漂着し、ポルトガル人が新兵器である鉄 砲をもたらした」
 この文章で誤っている箇所を指摘してみてほしい。

 なんと、「種子島」「ポルトガル人」以外は、みな間違いか怪しいのである。
 たとえば、山川出版社の『詳説日本史B』(二〇一八年)には、
「1543(天文12)年にポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が、九州南方の種子島に漂着した。これが日本にきた最初のヨーロッパ人である。島主の種子島時尭(たねがしまときたか)は、彼らのもっていた鉄砲を買い求め、 家臣にその使用法と製造法を学ばせた」
とある。

 昔の教科書は「1543(天文12)年、ポルトガル人が種子島に漂着し、日本にはじめて鉄砲を伝えた」(『高等学校日本史』学校図書 一九七三年)と簡素に書かれていたので、まるでヨーロッパのポルトガルから出航した船に乗って、ポルトガル人たちが種子島に漂着したかのように思い込んでいる人も多いだろう。
 が、じつは彼らは「中国人 倭寇 の船」に乗っていたのである。
 倭寇とは日本人海賊のことだったが、戦国時代になると、圧倒的に中国人が多くなる。
 彼らの祖国である明(中国)は、海禁政策をとって自国民の対外交易を禁じていた。
 このため、中国人の中には東南アジアのヨーロッパ人と密かに交易を行い、時には海賊となって船や沿岸部を襲撃する人々が出てきた。
 それが中国人倭寇であり、種子島に漂着したのは、そうした倭寇の中心的人物である王直の船だった。
 ポルトガル人は、中国人倭寇と密貿易をしていた商人だったのかもしれない。

 さらに、鉄砲伝来年も変化しつつある。
 桐原書店の『新日本史B』では「鉄砲伝来の年については、1543年を否定する説もある」(二〇〇四年)と明記されている。
  じつは一五四三年説は、南浦文之(なんぽぶんし)が一六〇六年に著した『鉄炮記』の記録がもとになっている。
 同書によれば、この年の八月二十五日、九州の種子島にポルトガル人が漂着したとし、島主の種子島時尭が彼らから二挺の火縄銃を購入し、鉄砲と火薬の製造法を家臣に学ばせたとある。
 けれど、ヨーロッパの文献には、一五四二年を日本への鉄砲伝来の年とするものが多い。

 アントニオ・ペイショットが著した『世界発見史』もその一つで、同書には、種子島に漂着したポルトガル人三名の実名まで登場する。
 そんなことで「1542(天文11)年とする説もある」(『詳説日本史B』山川出版社  二〇一八年)と記されるなど、教科書の記述も揺れはじめているのである。

 それによく考えてみれば、ポルトガルは十六世紀はじめにインドのゴアを拠点として東南アジアで交易を始めている。
 だからこの時期、鉄砲を所持している中国人やアジア人は大勢いたと思われ、そうした人々を通じて日本列島に鉄砲が入り込んでいても不思議はないのである。
 単に最古の記録が「一五四三年に種子島に伝来した」というに過ぎないのであり、もっと早い時期に我が国に鉄砲がもたらされていた可能性は十分あり得る。
 実際、日本に残る火縄銃を調査してみると、その伝来ルートが複数想定されるという。

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逆転した日本史

河合敦

いつの間にか学校で習った歴史の「常識」が変わっていた!? いまの歴史教科書では「鎌倉幕府の成立はイイクニ(1192年)」ではなくなり、「生類憐みの令」を出した将軍綱吉は「名君」として教えられている。「鎖国」や「士農工商の身分制度」など...もっと読む

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コメント

1ne15u 今回のcakesの記事は「鉄砲伝来」だよ。読んでくだせえ!#河合敦 # 約2年前 replyretweetfavorite