渋谷のスクランブル交差点は一度の青信号で多い時には三千人が行き交うらしい。
三月、春の訪れを知らせる温かい雨が降る日のこと。私はスクランブル交差点を行き交う人たちの青、赤、黄、白、紺、緑とたくさんの色の傘の花が咲き乱れるのを眺めていた。
この傘を持った人たちそれぞれに人生があり、このスクランブル交差点を渡っているんだと思うと、少し切なくなる。
こんな温かい雨が降る夜にはボサノヴァが聴きたくなる。
『イパネマの娘』というボサノヴァの有名な曲がある。
イパネマの海岸へと向かって歩いている美しい女性がいる。歌の主人公の「僕」はただ見ているだけで、彼女には声をかけられない。どうして「僕」は彼女に声をかけられないのだろう。ただ臆病なだけということでもなさそうだ。この世界には「好きだ」と伝えられない恋もある。
スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトが共演したアルバムを取り出し、針を置くと、ジョアン・ジルベルトが声をかけられない切ない恋の曲を歌い始めた。
バーの扉が開き、以前はよく来店されていた女性が傘を閉じながら入ってきた。
年齢は今はたしか四十三歳。長い髪の毛を後ろでまとめて、濃い紺色のセーターを着ている。四十をこえているのに相変わらず若々しく見えるのは背筋の伸びた姿勢とちょっとはにかんだ笑顔のせいだろう。成熟した大人の女性特有の少しかすれた声で「お久しぶりです。ちょっと近くに寄ったもので」と言った。
お仕事はイタリアの食材やワインを輸入している小さい商社の営業で、私のバーにも仕事がきっかけでよく来店していただいていた。
彼女のご主人がその会社を経営している。他にイタリアの美術や音楽を紹介する仕事もされていて、業界ではちょっとした有名人だ。
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