1 高校中退外交官 のはなし ── 外交官になった元コギャル
「社会のゴミ」とまで言われた高校時代
はじめに少し、わたし自身の話をさせてください。わたしがなぜ世界に興味を持ったか。わたし自身の経験を書くことはちょっと恥ずかしくもあるのですが、いろんな方に日本のこと、そして世界のことに興味を持ってもらいたいというのもこの本のひとつの目的でもあるので、書こうと思います。
若いときに人生につまずき、高校を投げ出し、フラフラとしていたわたしが、なぜ世界に興味を持ち、そして外交官を目指したかという話に、ちょっとだけお付き合いください。
わたしは埼玉県の川口市というところで生まれました。帰国子女でもないし、地元の公立小学校・中学校に通ういわゆるフツーの子です。大学生になるまでは、両親に連れて行ってもらった海外旅行しか海外経験はありませんでした。
はじめて日本から出たのは、小学5年生のとき。オーストラリアへの家族旅行です。そこには、それまで見たことのない世界が広がっていました。小学生の手ではつかみきれない巨大なハンバーガー、目の覚めるような甘さのストロベリーケーキ、オペラハウスの壮大な美しさ、目が合うとにっこり微笑んで「Hi」と声をかけてくれる青い目の人たちに、ただただ驚くだけでした。
中学校卒業後は、家から電車で30分程度の公立高校に進みました。いわゆる進学校でもなく、どちらかというとそんなに偏差値が高い学校ではありません。その高校を選んだ理由は、制服がかわいかったから。
そんないい加減な理由で高校を選んだせいか、人付き合いが下手だったのか、高校生活になかなかなじめませんでした。すぐに授業には行かなくなり、毎日のように新宿や渋谷で友だちと遊ぶ生活。出席日数が足りず、高校1年生終了時には見事に留年。すっかりやる気をなくしたわたしは、その高校を中退しました。
高校中退後はいわゆるコギャルです。髪を金髪に染め、日焼けマシンで肌を焼き、ギャル系のファッションに身を包み、大した目的もなく、友達と街をフラフラする毎日。非行にも走っていました。来る日も来る日も渋谷や六本木のクラブやカラオケで夜を明かし、家に帰るのはいつも明け方。
夜通し遊んで、朝が来ると、クタクタに疲れきり、出勤する大人たちに混じりながら、朝帰りをする日々。朝帰りの途中、満員電車でイライラしたサラリーマンから、「おまえみたいのは社会のゴミだ」という言葉を吐き捨てられたこともあります。
ラップのかかった晩ご飯
夜中にクラブで遊んでいると、心配した母から、何度も何度も携帯に電話がかかってきていました。でも、無視。出たってどうせ怒られるだけだから。
こんな風に、夜遊びばかりしていたわたしは、家に帰るかどうかの連絡すらしていませんでした。それでも母は、そんなわたしに毎日かならず夕食を用意してくれていました。果たしてわたしが食べるかもわからなかったけど、帰ってくるかもわからないけど。それでも母は、毎日欠かさずに夕食を用意してくれていました。
明け方家に帰ると、食卓にはいつも、ラップのかかった冷えきった夕食が、さみしそうに置かれていました。でも夜通し遊んで疲れ切ったわたしは、それに手をつけることはほとんどなく、帰るとすぐにベッドに倒れこむように寝ていました。
わたしが食べずに余ってしまった夕食。それはいつも母が朝ごはんとして食べていました。前日の夕食をもう一度食べたくはなかっただろうに。朝食にするには油っこいものもあっただろうに。母には夜も朝も、同じものを食べさせてしまっていました。
高校中退後、口をきくとケンカになるので、母とはろくに会話もない状態でした。でも、ほんとうは全部気づいていました。毎日かならず夕食を用意してくれていることも、わたしが食べなかった前日の夕食を母が朝に食べていることも。疲れ果ててベッドに横たわりながらも、実は全部知っていました。ただ、見て見ぬふりをしていただけ。
言えなかったけど、本当は心の中では思っていました。「ママ、ごめんね。夜も朝も同じものを食べさせて、ごめんね」って。そんな母に対する申し訳ないという気持ちが、毎朝、毎朝、少しずつ、少しずつ、積もり積もっていました。
そんな思いもあってか、「わたし、このままでいいのかな……」「今のままではいけないな……」とも感じ始めていました。
でも、勉強もずっとしていないし、何か特技があるわけでもないし、別にやりたいこともないし、そもそもこの生活から抜け出すために、何をしたらいいのかもわからないし……。だから、難しいことを考えるのはやめて、また今日も、とりあえずクラブやカラオケに行こう。 そんな風に無気力な日々は過ぎていきました。
わたしを救ってくれた『日本昔ばなし』
そんなわたしに転機が訪れたのは、17歳の春のことでした。
フラフラと堕落した日々の、ある日曜日の朝のこと。前日の土曜日の夜は、いつものように夜通しクラブで遊んでいました。夜が明けると、いつものように、クタクタになって家路につきました。
その朝も、食卓には私の夕食が置かれていました。でも、もう疲れすぎて食べられません。ラップのかかった夕食を横目に、自分の部屋に入り、わたしはベッドに倒れこみました。ボーッと天井を見つめながら、このまま寝ようかなとも思ったのですが、ふとテレビのリモコンを手に取りました。
テレビをつけると、そこでやっていたのは『日本昔ばなし』の再放送。徹夜明けのボーッとした頭で、特別なことを考えるでもなく、ただテレビから流れてくる昔ばなしを見ていました。
しばらくすると、昔ばなしは終わり、エンディングテーマが流れてきました。聞いたことがある人も多いでしょう。『にんげんっていいな』という曲です。
歌詞の一部を抜粋します。
「いいないいな にんげんっていいな おいしいおやつに、ほかほかごはん 子どもの帰りを待ってるだろな ぼくも帰ろ、お家へ帰ろ でんでんでんぐりがえってバイバイバイ
いいないいな、にんげんっていいな みんなでなかよく ポチャポチャおふろ あったかいふとんで 眠るんだろな ぼくも帰ろ、お家へ帰ろ でんでんでんぐりがえって、バイバイバイ」
なぜだかわかりません。別に、はじめて聴いた曲でもありません。でも、この曲を聴き終わった瞬間に、今までの積もり積もった思いが急にあふれてきたのです。
きっと母は、ほかほかごはんを作りながら、わたしの帰りを待っていたのだろう。お風呂もわかしてくれていただろうし、あったかい布団も用意してくれていただろう。そんな母の姿が、『にんげんっていいな』の歌詞にダブってしまったのです。
数え切れないくらいの母からの真夜中の不在着信、いつも食べなかったラップのかかった晩ご飯、眠れずに夜を明かした母の真っ赤な目。それらすべてが、なぜか急にわたしの頭に浮かんできて、わたしはもう涙を抑えきれませんでした。母は、何年も眠れない夜を過ごしてきたのだろう、ぜんぜん娘が帰ってこなくて不安だっただろう、そんな思いがあふれてきて、心から「ママ、ごめんね」と思いました。 「もうこれ以上、こんなことはやめよう」そう思いました。その日を機に、もう非行はしない、もう母に迷惑をかけない、と決意しました。そして、もう一度ちゃんと立ち直って、勉強もして、できれば大学にも行こう、もう一度、きちんとした人間になって、今まで心配をかけた母に恩返ししよう、そう心に決めたのです。