illust:ひうらさとる
翌朝、箱根は晴れ渡っていた。ちょうど六時。家中がひっそり静まり返っている。置き手紙をリビングのテーブルにおいて、そのまま外へ出た。
草の匂いがする空気は、肺の奥まで入り込む。赤いミニクーパーの隣にパテーによって磨かれた徹カーがあった。ドアに手をかける。
「朝逃げかい」
ピンク色のランニングウェアに身を包んだ蟹江がいた。
「お世話になりました。僕、戻ります」
「また急にどうしたんだい。しかもこんな時間に。何があったかわからないけど。淳也ちゃんが決めたことなんだね。『心配するなら信じて』って歌詞にもあったし。信じようかね」
蟹江は「無鉄砲、無鉄砲」とそこだけを思いっきり歌った。潔いほどに音程が外れていて、言葉しか合っていないけれど、これ以上はない応援歌だ。
エンジンをかけて窓を開けると、蟹江は車の中に上半身を入れて僕の頭をむぎゅっと抱えた。山道を戻りながら、その時に言われたことを思い起こす。
「一年後の淳也ちゃんにメッセージ。何かに縋らないと生きていけない人もいるから、正義で裁かないようにしてあげて。自分が強くなると、かつて弱まって苦しんでいた自分のことすら忘れちゃうんだ」
蟹江が段取りをしたタイ旅行の出発は三週間後だ。それまでに片づけることがたくさんあった。
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