illust:ひうらさとる
夜中、オーストラリアにいるはずの妹、未知香の声で目を覚ます。
「お兄、なんで助けてくれなかったの」
動かそうと思っても、身体は動かなかった。目だけはかろうじて言うことをきく。金縛りにでも遭ったのか。目を閉じてその場をやり過ごそうとした。
再び未知香の声がする。
「いつだってそう」
淳也と未知香の父である
「橋の上で突き飛ばされて命を落とす奴もいる。俺は誰も信じない」というのが虎雄の口癖だ。親方のもとを飛び出し、十九歳で独立。金回りのよくなった虎雄は高級クラブを飲み歩き、赤坂のホステスにたて続けに二人、子供を産ませた。
度重なる暴力のもとで子供の母親はすぐに家を出て行く。残された子というのが淳也と未知香だ。
「お前たちの母親はもう生きてないからな」
何度となく聞かされた台詞だ。物心がついてから、生きていないということをイメージしようとすると、悪寒に襲われる。それ以降、虎雄の言葉は極力、耳から耳へと抜けさせるようにした。
子供が産まれると虎雄は、医療機器の販売業に手を出す。字の読み書きがまともにできず、本を全く読まないものだから、すぐに経営は立ち行かなくなった。やがて多額の借金を抱えるようになる。
淳也はいつも思う。親父はあのままとび職人をやっていればよかったのに。記憶の中の虎雄は常に酔っていて、手当り次第、家のものをなぎ倒していた。片づけるのは淳也の仕事だった。ガラスで人差し指の付け根を切った時には、つい恨めしい顔で虎雄を見やった。すぐに後悔をする。
虎雄はおなじみの台詞を淳也にぶつけるのだった。
「なんて目をしてるんだ。お前が言うこときかんかったら、未知香を殺す。わかったな。いらんことするなよ。早く片づけろ」
かがんだ淳也の腰を蹴り上げ、虎雄は敷きっぱなしの布団に倒れ込んで寝てしまった。未知香は少し離れたところで薄汚れた毛布をかぶって震えている。
僕が未知香を大事にすると、未知香は虎雄に人質にされる。だからあえて怯える未知香を抱きしめることはしなかった。
未知香のことなんて何も思わないふりをし続けた。この頃から、僕の意識はヘリコプターに乗り込むようにしてカプセルの中に入り、宙から日常を眺めるようになったのだ。
自分ならいくら殴られたっていい。未知香だけは守らなければ。ずっとそう思っていた。僕の華奢な身体では守ることはできなかったけれど。
虎雄のそれが始まったのは、僕が六歳、未知香が五歳のときだった。
「風呂に入る。早く脱げ」
僕らは軍隊のように脱衣して風呂場に走る。狭い湯船には虎雄しか入れない。虎雄は洗いもせずにざぶんと浸かり、湯を片手ですくって口をゆすぎ、そのまま湯船の中に吐き捨てた。
だいぶ減った湯の中で、淳也と未知香は体育座りをする。入浴はこれ以上はない苦痛なひと時となった。
「未知香、来い」
未知香の腕を食器洗い用のスポンジでこする。執拗に脇の下をこすり続けた後、片足を上げさせた。しばらく足の真ん中を虚ろな眼で舐めまわし、片足ずつ石鹸をつけていく。足の真ん中を強く上下すると、未知香は痛みに声を上げた。
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