妹のためなら、いくら殴られたっていい

職業作詞家と人材派遣会社の営業マンの二足のわらじを履き、母と二人で暮らしている楢崎淳也(ならざき じゅんや)。作詞のために箱根に篭った夜、いつもの睡眠薬を飲み忘れた淳也は、父に虐待されていた子供時代の悪夢にうなされてしまう。(毎週月曜日更新)

illust:ひうらさとる

 夜中、オーストラリアにいるはずの妹、未知香の声で目を覚ます。

「お兄、なんで助けてくれなかったの」
動かそうと思っても、身体は動かなかった。目だけはかろうじて言うことをきく。金縛りにでも遭ったのか。目を閉じてその場をやり過ごそうとした。

 再び未知香の声がする。
「いつだってそう」

 淳也と未知香の父である虎雄とらおは十六歳で九州は炭鉱の町から上京し、橋梁の仕事に就いた。いわゆるとび職で、日本で最長といわれる橋の建設に携わっていたという。

「橋の上で突き飛ばされて命を落とす奴もいる。俺は誰も信じない」というのが虎雄の口癖だ。親方のもとを飛び出し、十九歳で独立。金回りのよくなった虎雄は高級クラブを飲み歩き、赤坂のホステスにたて続けに二人、子供を産ませた。

 度重なる暴力のもとで子供の母親はすぐに家を出て行く。残された子というのが淳也と未知香だ。

「お前たちの母親はもう生きてないからな」
何度となく聞かされた台詞だ。物心がついてから、生きていないということをイメージしようとすると、悪寒に襲われる。それ以降、虎雄の言葉は極力、耳から耳へと抜けさせるようにした。

 子供が産まれると虎雄は、医療機器の販売業に手を出す。字の読み書きがまともにできず、本を全く読まないものだから、すぐに経営は立ち行かなくなった。やがて多額の借金を抱えるようになる。

 淳也はいつも思う。親父はあのままとび職人をやっていればよかったのに。記憶の中の虎雄は常に酔っていて、手当り次第、家のものをなぎ倒していた。片づけるのは淳也の仕事だった。ガラスで人差し指の付け根を切った時には、つい恨めしい顔で虎雄を見やった。すぐに後悔をする。

 虎雄はおなじみの台詞を淳也にぶつけるのだった。
「なんて目をしてるんだ。お前が言うこときかんかったら、未知香を殺す。わかったな。いらんことするなよ。早く片づけろ」

 かがんだ淳也の腰を蹴り上げ、虎雄は敷きっぱなしの布団に倒れ込んで寝てしまった。未知香は少し離れたところで薄汚れた毛布をかぶって震えている。
 僕が未知香を大事にすると、未知香は虎雄に人質にされる。だからあえて怯える未知香を抱きしめることはしなかった。

 未知香のことなんて何も思わないふりをし続けた。この頃から、僕の意識はヘリコプターに乗り込むようにしてカプセルの中に入り、宙から日常を眺めるようになったのだ。
 自分ならいくら殴られたっていい。未知香だけは守らなければ。ずっとそう思っていた。僕の華奢な身体では守ることはできなかったけれど。

 虎雄のそれが始まったのは、僕が六歳、未知香が五歳のときだった。
「風呂に入る。早く脱げ」

 僕らは軍隊のように脱衣して風呂場に走る。狭い湯船には虎雄しか入れない。虎雄は洗いもせずにざぶんと浸かり、湯を片手ですくって口をゆすぎ、そのまま湯船の中に吐き捨てた。

 だいぶ減った湯の中で、淳也と未知香は体育座りをする。入浴はこれ以上はない苦痛なひと時となった。

「未知香、来い」
 未知香の腕を食器洗い用のスポンジでこする。執拗に脇の下をこすり続けた後、片足を上げさせた。しばらく足の真ん中を虚ろな眼で舐めまわし、片足ずつ石鹸をつけていく。足の真ん中を強く上下すると、未知香は痛みに声を上げた。

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夜明けのポップス

藤瀬聖子

主人公の楢崎淳也(ならざきじゅんや)は、人材派遣会社で営業として働きながら、人気アイドルグループの作詞も手がける作詞家。しかし二足のわらじ生活は、彼の心身を徐々に蝕んでゆく。そんなおり、訪れた箱根の山中で不思議な女性に出会い……。嵐、...もっと読む

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