埼玉に住んでいるのは、ハンデだと思う

職業作詞家と人材派遣会社の営業マンの二足のわらじを履き、母と二人で暮らしている楢崎淳也。作詞コンペの締切が迫り、宿に篭ろうと箱根へ向かった淳也は、不可思議な女性と出会うことになる。(毎週月曜日更新)

illust:ひうらさとる

 母さんと二人で暮らす僕は、自宅だと歌詞を書いている途中で生活に引き戻される。都内の喫茶店のみならず、電車の中、はたまた歩きながらでも作詞ができるようになった。山手線をぐるぐるまわって書いたこともある。

 事務所の社長から直々にリライトの電話がかかってきたときには、すぐにタクシーに飛び乗った。あと三十分後にサビを三パターン書き直して提出するようにという指示があったからだ。

「埼玉の川越方面へ向かって走らせてください」と運転手に告げ、PCを開く。その日は人材派遣営業の書類作成を夜遅くまでやっていて終電ぎりぎりだった。タクシーの中を作詞スペースにするしかない。

 作詞はPCひとつあればどこでもできるから続けてこられた。電車よりタクシーがいいのは歌えるからだ。作詞は歌ってつくる。譜割ふわりといって、メロディに正確に言葉を当てはめていかないことには、歌い手が歌いにくい状況をつくってしまう。

 どんなに素敵なメッセージがあろうと、きらりと光る言葉があろうと、譜割がだめだと採用されない。だから、自ら何度も歌ってつくる必要がある。

 イヤフォンをつけたら、運転手の存在がすっと消えた。そこはもう歌の世界だ。タクシーに乗っている間に夢中で仕上げた。

 僕が母さんと暮らすアパートは埼玉県F市にある。都心から離れると互いのスペースを確保できる間取りを見つけられた。
 埼玉に住んでいることはハンデだと思っている。作詞家仲間たちは事務所のある表参道近くに住んでいた。ふらりと事務所に顔を出すと、他の人が書いた歌詞のリライトを頼まれ、クレジットに名を連ねることもあるという。

 なぜ僕が東京に住めないのか。父親と母親それぞれの生活費をみているからだ。考えても仕方がないこと。どうにも動かせない現実を前に、極力、感情を殺して生きるようにしてきた。心の状態をいつでもフラットにするよう意識しながら、起きていることの当事者にならないように日常を俯瞰し続ける。いつのまにか感情が麻痺してきて、薄皮で包まれた日常を送るようになっていた。

 一枚隔てた先の現実は、僕には他人事として聞こえてくる。僕の中に入れないと泣きながら離れていった彼女の姿さえ、PC画面の中で流れているような錯覚に陥っていた。
 感情も痛みもあまり感じない。作詞を終えた後の疲労感しか、生きている心地を得られない。

 新宿から昼過ぎのロマンスカーに飛び乗った。車内で宿サイトをチェックし、一万円を切る旅館を見つけた。古いけれど源泉かけ流しの温泉が各部屋にある。温泉につかりながら、明日午前十時の締切まで作詞に没頭することにしよう。

 小田急線のH駅で急行に乗り換え、I駅で下車する。近くに住んでいる音楽仲間の徹に車を借りた。ここからだと箱根の芦ノ湖周辺まで五十分ほどで行ける。

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夜明けのポップス

藤瀬聖子

主人公の楢崎淳也(ならざきじゅんや)は、人材派遣会社で営業として働きながら、人気アイドルグループの作詞も手がける作詞家。しかし二足のわらじ生活は、彼の心身を徐々に蝕んでゆく。そんなおり、訪れた箱根の山中で不思議な女性に出会い……。嵐、...もっと読む

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