鎌倉の家

鎌倉の家

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓――。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出します。

楽勝!ではなかった夜の皿洗い

 若い頃、なぜ、あんなに六本木にひかれたのだろうか。大学生になると、関心の中心はいつも六本木だった。ディスコやバーで知り合いに会う、もしくは知り合いができる、起こるのはそれぐらいなのに、あの街にいるだけで気分が上がった。

 大学に入って最初にしたのは、クルマの免許を取ること。教習所に通うお金とオンボロの中古車の購入代金は母に借りた。バイトして返すといったら、母からこんな提案を受けた。

「バイトの代わりに、うちの仕事をしなさい。大学を卒業するまで、毎晩台所の後片付けをすること」

「毎晩?」

「そう。たとえ自分が外で食べても、家族の使ったお皿は必ず洗う。それがあなたの仕事」

「うん。わかった」

 楽勝! と、その時は思った。家に帰ってきてちょこちょこっとやれば済むんだから。しかし、その考えは甘かった。酔っ払って帰ってくる夜もあれば、翌朝が早い時もある。試験の時期にわざとらしく勉強に忙しいふりをしても、母は一切手を貸してくれなかった。

「私が洗ったほうが簡単だけれど、これは約束だから」

 旅行の時以外、大学を卒業するまで毎晩、皿洗いをした。少しぐらい体調が悪くても許してもらえなかった。慣れないうちは時間がかかったが、毎晩皿洗いをしていると、手際もよくなった。いつの間にか皿洗いは日常の一部となった。

 そうやって手に入れたクルマで六本木に行き、路上駐車をして飲酒運転で帰ってくる。おおらかな時代などというのはあつかましいが、あの界隈では路上駐車も飲酒運転もめずらしいものではなかった。今考えると恐ろしい。

 六本木であやふやな夜を過ごした後、第三京浜を走り鎌倉へと向かう。空から紺色が剥がれるように、ひたひたと白くなっていく時間帯が好きだった。明け方、鎌倉の家に帰ると、台所で汚れた皿が山となって待っていた。眠気と闘いながらそれを洗っていると、さっきまでの馬鹿騒ぎが嘘のように思えるのだった。

鳩サブレーに「スパシーバ」

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鎌倉の家

甘糟 りり子
河出書房新社
2018-09-26

この連載について

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鎌倉の家

甘糟りり子

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓——。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出すエッセイ。

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elba_isola 甘糟さんの記事が大好きで更新のたびに楽しみにしている。縁遠い住まいや暮らしだけど、こういう世界、スタイルって素敵だなと思う。 https://t.co/EIQFMUZcRZ 4ヶ月前 replyretweetfavorite