鎌倉の家

迷宮入りした、父とウイスキーの謎

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓――。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出します。

親の嗜好から自立するとき

 ウイスキーを飲むようになったきっかけは、雑誌の仕事である。

 二十年近く前のこと。シングルモルトを幅広い層にアピールしようという企画で編集部から指名を受けた一人だった。理科の実験用みたいな小さなボトルに入ったウイスキーが何種類か送られてくる。ボトルにラベルはなく、番号だけが書かれており、何通りかの飲み方の指示が書いた紙も同封されていた。一番おいしいと思ったものと理由を書いて編集部に渡すと、選んだウイスキーの銘柄が誌面で発表される、という仕組みだった。鼻に残るツンとした香りとふくよかな味わいが印象的だったものがあり、その番号を書いた。薬品のような匂いと味が気に入った。

 どきどきしながら送られてきた雑誌のページをめくってみると、私が選んだのは「ボウモア」であった。スコットランドのアイラ島という小さな島で作られている。蒸留所や貯蔵庫は海に面しており、そのせいで磯の香りが強いそうだ。などというウンチクを読みあさり、早速ボウモアのボトルを買ったり、雑誌を見た人からプレゼントしてもらったりで、狸穴坂にあった仕事用の部屋にはボウモアのボトルが溜まっていった。

 味わいだけではない。ウイスキーは、それまで慣れ親しんでいたワインよりも、手早く酔えるのがよかった。あの頃は雑誌の仕事をたくさん抱えていて、原稿を書き終えるのはたいてい真夜中か明け方。冴え渡った頭をお酒で解かないと寝付けない。ワインで優雅に時間をかけて頭をふやかすのもいいが、時間のドアを開けるようにウイスキーで酔うのもまた好きだった。

 それまで敬遠していた分だけ、ウイスキーに熱中した。

 ボウモアだけでなく一通りモルト・ウイスキーを飲んで、その後はブレンデッドも飲むようになった。炭酸で割ったり水で割ったり、ストレートやらロックやら、いろいろ試して、トゥワイスアップという一対一の飲み方が自分の好みだとわかった。

 父が水割りを飲んでいるところを見た記憶がない。

 お酒ならなんでも好きだった。日本酒やワイン、ブランデーはもちろん、ビールやら焼酎やらリキュールやら、値段や度数にかかわらず、たいていのお酒をおいしそうに飲んだ。けれど、家でもレストランでもウイスキーは口にしなかった。

 父は好みがはっきりしていた。黒や紺など濃い色目の服は嫌い。カバンを持つのがいやだから、ジャケットはポケットのあるもの。どんなに寒くてもコートは着ない。そんな父から私は食事や酒の好みをそっくりそのまま受け継いだ。牛肉より鴨や鳩、鹿など野生の肉、魚は白身、食パンは端っこ、シャンパーニュやワインのつまみにバター、ラーメンはほとんど食べない。甘いものは苦手ではないが、食事の最後に一口だけあればいいというのも父と同じ。米屋の息子らしくお米は固めに炊いたものが好きだった。蕎麦なら鴨南蛮、天ぷらは穴子。好きなワインの銘柄も同じなのは、父が買ったものを飲んでいたのだから当たり前か。

 ウイスキーは私にとって嗜好の自立でもあった。

 ウイスキーだけは自分で開拓した味覚だった。自分で選んで失敗して、と書きたいところだけれど、ウイスキーには失敗がなかった。おいしくないものにも魅力がある、といったらいいだろうか。雑な味わいのウイスキーは、夜の別の表情を見せてくれる。

天国で父にまず聞きたいこと
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甘糟 りり子
河出書房新社
2018-09-26

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鎌倉の家

甘糟りり子

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓——。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出すエッセイ。

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コメント

maaaikkaaaaa 「ウイスキーは私にとって嗜好の自立でもあった。」 この一文に惚れた。 12ヶ月前 replyretweetfavorite