鎌倉の家

国際ファックスに隠された親心

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓――。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出します。

おしどり夫婦の大げんか

 父と母はおだやかな夫婦だった。喧嘩をしているところを見たことがない。母は気ままで自由なもののいいかたをするが、父はそんな母のことを「生まれっぱなしの人」とおもしろがっていた。

 めずらしく父と母がいい争いをしていたのは、父が勤めていた出版社を退いた後のことだ。父が下痢と便秘を繰り返すようになり、母は大腸癌になった友人に症状が似ているのできちんとした病院で検査をしてほしいといったが、父はまったく取り合わなかった。

「何でもかんでも大げさなんだよ。アタシがそんな大きな病気のわけがないでしょうが」

 それでも念のため、と繰り返す母に父は苛立った。

「ばかばかしい。妄想癖もいい加減にしなさいよ」

「もし大腸癌だったとしても、知らないからね」

 母はそう返して、自分の部屋にこもってしまった。

 私は、父の好きな銘柄の赤ワインを開け、いくらなんでもあのいいかたはないんじゃないのといったが、父はいつものように表情を変えず、生返事をしただけだった。

 翌日、母が居間に下りてくると、改まって父がいった。

「昨日は悪かった。心配してくれているのに」

 頭まで下げたので、びっくりした。それでも検査に行くとはいわなかった。

 それから二ヶ月ほどして、父は排便がうまくいかないと痔の医者に行くことになった。私は、ちょうど海外出張に出かける日だった。スイスとパリで別の取材があり、十日ほどの日程である。

 成田空港から母に電話をすると、トランジットのフランクフルト空港からもう一度かけて欲しいという。その頃、携帯電話はまだ海外では電波が不安定の上、驚くほど料金が高額で、あまり役に立たなかった。メールなんて便利なものもない。空港のラウンジの公衆電話から鎌倉の家にかけた。日本は深夜だった。翌日東京の病院に行くことになったと母がいった。わずか数分の会話だが、なんとなく胸がざわざわした。

父の本音がこぼれた電話
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鎌倉の家

甘糟りり子

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓——。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出すエッセイ。

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