大好きだったワインが飲めなくなった父
ワインショップ「エノテカ」が先物買い、いわゆるプリムールを始めたのは一九九五年のこと。収穫したブドウが樽の中で熟成している最中、まだ瓶詰めされる前に買ってしまう。ボルドーの赤ワイン独特のシステムをエノテカが日本で初めて導入したのだった。
早速、父に勧めたのだが、すぐに飲めないのはつまらない、といわれた。私は粘り強く説得した。
「お父さんが二年後も元気でおいしくお酒が飲めるように、目標代わりに何本か買っておいたら?」
とかなんとかいって、そそのかした。
銘柄選びもエノテカのスタッフと相談して私が勝手に決めた。リストに「ペトリュス」があった。その頃はまだ日本では今のようにもてはやされていなかったが、それでも一本五万円ぐらい。シンデレラ・シャトーの先駆けといわれるこのワインをいつか飲んでみたくて、二〇〇〇年のヴィンテージの購入時に思い切った。
ペトリュスはフランスのシャトーとしては歴史があるわけではなく、規模も小さい。それほど有名ではなかったペトリュスを、一九五〇年代のニューヨークで一番スノッブだった「ル・パヴィヨン」というレストランのオーナーが気に入って常連たちに勧め、一躍ステイタス・シンボルとなった。常連客には、ケネディ、ロックフェラー、オナシスなどがいた。このエピソードを『ワイン通が嫌われる理由』という本で読んで以来、憧れの銘柄だった。ボルドーのワインがフランス国内より先にニューヨークで評価されたというのがかっこいいと思った。
プリムールの場合、現物が届くのは支払いをしてから二年後。届く前にワインセラーを買った。せっかくペトリュスが我が家にやって来るのだから、ふさわしい状態で保存しなければならないと父と母を強引に説得した。
父は二〇〇一年、直腸と胃とリンパ節に癌が見つかり、八時間にも及ぶ大きな手術をした。胃を三分の二ほど切除したら、味覚が変わってしまった。酸っぱいものが苦手になり、大好きだった鮨とワインを口にしなくなった。ペトリュスが家に届く前に赤ワインを飲まなくなってしまったのだ。父は、「ワインは飲むためにあるのだから、りり子の好きなように開ければいいじゃない」といったけれど、なかなかそういう気にはなれず、プリムールで買ったものはみんなセラーに寝かされたままだった。
二〇一三年十一月、父が亡くなった。亡くなる前の晩に飲んだのは日本酒だった。
セラーにはたくさんのワインが残された。何か納得のいく理由が見つかった時に、ペトリュスを開けようと思った。渾身の一作が書けた時か、自分の切りのいい誕生日か、父の命日か。いつのことになるのかわからないけれど、シンデレラシャトーにふさわしいその時がきっと来るはずだ。
電話をくれればよかったのに
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