鎌倉の家

食後酒は一杯までと心に決めた日

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓――。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出します。

家族の記憶がたくさん置いてある空間

 「丸山亭」が開業したのは一九八〇年である。世の中はビストロブームの頃だ。おそらく鎌倉では初めての正統派のフランス料理だった。

 裏駅から歩いて数分、紀ノ国屋の前にあった。ゆるやかで大きな階段が三段、その横にはテラス席。このアプローチを通ると、わくわくした気持ちが膨らむ。店に入るとすぐウェイティングスペースがあって、シェリーやシャンパーニュで一息つく。奥のレストランスペースに案内されると、ようやく夜が始まる。内装はクラシックだけれど重過ぎず、鎌倉らしい空間だった。

 開業当初から、家族でよく行った。誕生日やお祝いなどでよく使ったので、家族の記憶がたくさん置いてある空間だ。

 初めてワインを飲んだのはこの店で、私は高校生だった。まだ未成年飲酒への意識も低かった時代である。父が飲んでいた赤ワインの色が美しくて、味見をさせてもらった。葡萄の味がするのに甘くなく、甘くないのにおいしいのが不思議だった。ほんの二口で顔が真っ赤になった。

 大人になってから、支配人の渡部勝さんにワインのことをいろいろ教わった。私たち家族が頼むメニューはだいたい決まっていて、いつも同じようなものだったが、毎回、さまざまなワインを勧めてくれた。ワイン通ではない父にも私にもわかりやすい説明だった。これまでどんなワインを飲んでいたかも覚えていて、この間ブルゴーニュの何々を気に入っていたから、今度はこれを試してみましょう、という具合に選んでくれた。彼はワインのこととなると話が止まらない。よくわからない単語が出てきても、弾むような口ぶりから、きっと頼んだ料理にあうおいしいワインなのだろうといつも思った。

 ああいう役目の人をソムリエと呼ぶと知ったのは、ずいぶん後になってからだ。

 フランス料理のコースの最初にアミューズと呼ばれる一口サイズの食べ物が出てくるのも、この店で知った。丸山亭のアミューズは、小さなシューにカレー風味の蟹肉を詰めたものだった。母はこれが大好きで、私の分まで食べようとして喧嘩になった。それを見かねて、母にだけ二つ出してくれるようになった。

「グラッパ」という単語を使ってみたくて

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鎌倉の家

甘糟 りり子
河出書房新社
2018-09-26

この連載について

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鎌倉の家

甘糟りり子

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓——。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出すエッセイ。

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