馴染みの醍醐味
スーパーマーケットやコンビニエンスストアの発達で、どの街でも個人が営む専門商店が少なくなっている。特に魚屋さん。海辺の街・鎌倉も例外ではなく、それぞれの町内の名店がいくつかなくなった。
北鎌倉には、魯山人も贔屓にしていた「魚作」という名店があったが、二◯一一年に閉店してしまった。北鎌倉の方たちはみんなそれを嘆いていた。
北鎌倉から澁澤龍彥夫人の龍子さんが食事にいらした時、おっしゃった。
「こんなに新鮮な鰺のお刺身は、もう稲村ヶ崎まで来なくちゃ食べられないわ」
私の住む稲村ヶ崎には「魚三」という店があって、越してきて以来のつきあいだ。鎌倉に越して、母も父も釣りたてでイキのいい魚を見て選ぶのを楽しんだ。ある時、相模湾ではめずらしいアラを見つけ、アラの鍋を食べたことがある父は喜んだ。何度かそんなことがあって、アラが入ると、電話がくるようになった。ぜひ、と頼んである家が四軒あって、そこに順番に電話をするのである。
いつだったか、お客様が急にいらっしゃることになった。魚三ではお刺身が売り切れていて、江ノ電で数駅のところにある魚屋さんまでお使いに行かされた。古くからある、名の知れた店だ。私がたどたどしく魚の名前をあげている最中に、女将さんはほとんど目も合わせず、冷たく「今、切らしてます」といい放った。やっぱり、と思った。あそこは上ものは常連さんにしか売らないらしい、と聞いたことがあった。
客と店とのこうした距離感はこの街の個性かもしれない。客の好みや暮らしを把握した上での依怙贔屓は、スーパーマーケットにはないものだ。
同じく稲村ヶ崎駅前の「はぶか牛肉店」では、時々、「鳥筋あるけど持っていく?」と声がかかる。ささみの筋を剥がしたものをためてあるのだ。いい出汁が取れるので、この申し出を断ったことはない。店の大きな冷蔵庫に牛や豚が大きな塊でぶら下がっていて、店主が包丁を使って切り分ける。あらかじめトレーにのせてあるスーパーの肉とは鮮度が違うそうだ。
魚三とはぶかがなくなったら稲村ヶ崎の土地の値段が下がる、と冗談混じりでいった人がいる。土地の値段はわからないけれど、この二軒がなくなったら生活が味けなくなってしまうと思う。
個人小切手を使っていた時代
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