鎌倉の家

お客とお店の距離感が特別な鎌倉

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓――。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出します。

馴染みの醍醐味

 スーパーマーケットやコンビニエンスストアの発達で、どの街でも個人が営む専門商店が少なくなっている。特に魚屋さん。海辺の街・鎌倉も例外ではなく、それぞれの町内の名店がいくつかなくなった。

 北鎌倉には、魯山人も贔屓にしていた「魚作」という名店があったが、二◯一一年に閉店してしまった。北鎌倉の方たちはみんなそれを嘆いていた。

 北鎌倉から澁澤龍彥夫人の龍子さんが食事にいらした時、おっしゃった。

「こんなに新鮮な鰺のお刺身は、もう稲村ヶ崎まで来なくちゃ食べられないわ」

 私の住む稲村ヶ崎には「魚三」という店があって、越してきて以来のつきあいだ。鎌倉に越して、母も父も釣りたてでイキのいい魚を見て選ぶのを楽しんだ。ある時、相模湾ではめずらしいアラを見つけ、アラの鍋を食べたことがある父は喜んだ。何度かそんなことがあって、アラが入ると、電話がくるようになった。ぜひ、と頼んである家が四軒あって、そこに順番に電話をするのである。

 いつだったか、お客様が急にいらっしゃることになった。魚三ではお刺身が売り切れていて、江ノ電で数駅のところにある魚屋さんまでお使いに行かされた。古くからある、名の知れた店だ。私がたどたどしく魚の名前をあげている最中に、女将さんはほとんど目も合わせず、冷たく「今、切らしてます」といい放った。やっぱり、と思った。あそこは上ものは常連さんにしか売らないらしい、と聞いたことがあった。

 客と店とのこうした距離感はこの街の個性かもしれない。客の好みや暮らしを把握した上での依怙贔屓は、スーパーマーケットにはないものだ。

 同じく稲村ヶ崎駅前の「はぶか牛肉店」では、時々、「鳥筋あるけど持っていく?」と声がかかる。ささみの筋を剥がしたものをためてあるのだ。いい出汁が取れるので、この申し出を断ったことはない。店の大きな冷蔵庫に牛や豚が大きな塊でぶら下がっていて、店主が包丁を使って切り分ける。あらかじめトレーにのせてあるスーパーの肉とは鮮度が違うそうだ。

 魚三とはぶかがなくなったら稲村ヶ崎の土地の値段が下がる、と冗談混じりでいった人がいる。土地の値段はわからないけれど、この二軒がなくなったら生活が味けなくなってしまうと思う。

個人小切手を使っていた時代
この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

鎌倉の家

甘糟 りり子
河出書房新社
2018-09-26

この連載について

初回を読む
鎌倉の家

甘糟りり子

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓——。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出すエッセイ。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

ririkong 更新されていましす。 4ヶ月前 replyretweetfavorite