鎌倉の家

愛犬は、ちょっと生意気なグルメ犬

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓――。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出します。

家族で一番なめられた私

 子犬は全身を震わせながら、うちにやって来た。まだ生後一ヶ月。景色が変わって怯えていたのだろう。母の知人からいただいたオスの柴犬には名前がついていた。和紙に墨で書かれた名前は「菊丸」、愛称「キック」。血統書の名前は別にあって「辰錦」といった。お米かお相撲さんみたいだなあと思った。

 私が高校一年、弟が小学六年の時だ。抱っこしたりご機嫌をとったりしていると、あっという間に時間が経ってしまう。学校を休みたいぐらい。私も弟も母も父も、家族じゅうの誰しもが一番やさしい声を出すのはキックに対してだった。私の靴を噛みまくり、何足もボロボロにしても、やんちゃぶりがかわいくて仕方がない。

 最初は庭の犬小屋で飼っていたが、犬の伝染病を媒介するやぶ蚊が多くなる時期に居間に避難させると、そのまま居ついてしまった。秋になって、リードを引っ張って外に出そうとすると、全身全霊で踏ん張って動かない。居間に住むようになり、ますます我が家の中心になった。キックは父の一人用のソファを寝床と決めていて、みんなが寝室に引き上げるとそこに上がって身体を丸めた。朝、父が部屋に近づく足音がすると、さっと下りた。

 ある日、家族でレストランに行くことになったけれど、私は高熱を出してしまい、二階の自分の部屋で寝ていた。家族が出かけて三十分もしないうちに、キックが鳴き出した。夜になってみんながいっぺんにいなくなったので置いていかれたと思ったらしく、悲しそうに吠え続けた。キックの気持ちを想像すると胸が痛くなって、高熱にうなされながら私も泣いてしまった。

 こんなに菊丸をかわいがっていたのだけれど、私は家族の中で一番ナメられていた。犬は家での序列がわかるというが、散歩に一度も行かない父にはちゃんと敬意を払っていた。母は食べ物をくれる命綱、弟には友達感覚で、それなりになついていた。でも、私は身をすり寄せてきたので抱っこしようとするとぷいっと横を向かれたり、完全に手玉に取られていた。

 散歩が大好きだった。人間の言葉に敏感で、「散歩」を聞き逃すことはなかった。会話で「さん」という言葉が出ると、散歩に連れていってもらえると思いリードをくわえて持ってきたり、玄関で待機したりする。私たちは用心深く、「三」といわなくてはならない時は「二の次の数字」とか「四の前」というようにしていた。

 私との散歩の時は、リードを持つ手が少しでも緩むと、からかうようにリードごとどこかへ走っていってしまう。しばらくすると何食わぬ顔で家に戻ってくるのだが、走り去られる度にキックがいなくなったらどうしようと心配した。

 キックは散歩に出ると、やっと安心したように排便をする。シャベルですくってビニール袋に入れたフンは、普通はそのままゴミに出せるのだが、母は、道端や庭に穴を掘ってフンをうめ、その上におまじないのように花の種を二、三粒まいた。そのうち、種のストックがなくなり、道路もコンクリートの舗装が多くなった。あの時の花の種はショカッサイだった。今でも、春になって道端に紫色の花が咲くと、キックのフンから出た花かなあと思う。

乾き物のドッグフードは大嫌い

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鎌倉の家

甘糟 りり子
河出書房新社
2018-09-26

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鎌倉の家

甘糟りり子

高い天井には太い梁、客間には囲炉裏、 庭に咲き誇る四季の花々、そして家族の食卓——。築90年、風情ある日本家屋で育った甘糟りり子さんが、鎌倉の魅力を美しく鮮やかに描き出すエッセイ。

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