お気に入りの旅先だった、岬の洞穴
子供の頃は大きな移動などしなくても、いろいろな世界に旅行できた。稲村ヶ崎公園の下にある大きな洞穴は私のお気に入りの旅先だった。そこに行けば、日常から切り離された特別な時間を過ごすことができる。
小さな岬にある稲村ヶ崎公園からの景色は数えきれないほど見ているが、その度にはっとする。はっとしながら懐かしい気持ちになる。視界が空と海でいっぱいになり、無意識にその境目を探してしまう。ここからの景色は私にとっての「ふるさと」だ。
景色の中心に江ノ島があり、空気が澄んでいる日ならその横に富士山、沖合には伊豆七島が眺められ、年二回のダイヤモンド富士の時期は一眼レフと三脚を持った人たちであふれかえる。そんな公園の下にある、あの場所が。
四十数年前、大きな洞穴はまだ砂浜の地続きにあり、公園の下の岩に沿って歩けば一分足らずでたどり着けた。雲ひとつない晴天の日でも、そこだけは墨で塗ったように黒かった。穴の壁面は波で何度も削られたせいか、でこぼこだらけだった。中は夏でもひんやりとした空気が漂っていて、昼でも暗くて、誰もいないのに何か気配のようなものがあった。「あ〜」と声を出すとそれが弱々しく間延びしていくのがおもしろくて、誰もいない暗闇に向かって、何度も声を出した。
そこが何のために作られた穴なのかは知らなかった。作られたものなのかどうかさえ、考えたこともなかった。あの頃は海のいたずらでできたものぐらいに思っていた気がする。とっておきの秘密の遊び場だった。
今では気軽に行けなくなった場所
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