庭でふるまう、母の野草料理
越してきた時、鎌倉の家には広い庭があった。
大きな木がたくさんあって、にぎやかな横浜から来た私には森のように見えた。木々に囲まれて真ん中には陽だまりのような部分があった。母は大工さんに頼んで大きなテーブルを作ってもらい、食事をしたり本を読んだり、雨の日と冬以外は多くの時間を庭で過ごすようになった。次第に規模が大きくなり、水道を引き、大きなかまどもしつらえた。
日曜の朝ご飯は必ずここでとった。庭は、我が家の食堂であり居間だった。たまに応接間にもなった。
私が小学校三年生の時、家庭訪問に担任の先生がいらした時も、母は庭だった。かまどにはカレーがかかっていて、グツグツとおいしそうな音をたてていた。
「うらやましい。子供たちにも体験させてみたいです」
母は快諾して、クラスメートがみんなうちの庭に集まって、カレーパーティーをした。一番太い木には大工さんが作ってくれたブランコがあって、順番にそれで遊んだ。最後の方は、順番ではなく取り合いになっていた記憶がある。
母は散歩のついでに近所の野草を摘んで、それを料理するようになった。あの頃の稲村ヶ崎には空き地が多く、春は野草の宝庫だった。学校から帰ると、母の散歩についていき、ノビルやらタンポポやら明日葉やらを摘むのを手伝った。自分で仕入れてきたものだと思うと、さらにおいしく感じられた。たまたま家に遊びに来た通信社の方がおもしろがって、若い頃にライターをしていた母に野草の料理についての原稿を依頼した。母がその道の専門家ではなく初心者なのがかえってよかったらしく、評判になって一冊の本にまとまった。他にも原稿の依頼が相次いだ。大人になってから聞いたのだけれど、望んでいたわけではないのに「ナチュラリスト」とか「野草料理研究家」という肩書きをつけられ、母はとまどったそうだ。
本を読んで、父や母の知人友人に野草の料理を食べてみたいという人がたくさんいて、春先から紫陽花の季節までに二、三回、庭での野草の会が恒例となった。ある時、詩人の高田敏子さんがいらして、子供の私宛に署名の入った詩集をくださった。生まれて初めての署名入りの本で、物というより書いた方の心の一部をもらったような気がした。今でも大切にとってある。
高田さんが弟に、あら、かわいいお嬢ちゃんね、といった。その時の弟はおかっぱで、顔立ちも甘いタイプだったので、女の子に間違えられることはよくあった。弟は松の木に登り、「僕は男だ!」といって、みんなに向かっておしっこをした。
母の原稿を学校に忘れた私
小学生の頃、二階のお座敷の小さな机の前にうずくまり、暗い顔をして頭を抱えている母を見かけることが度々あった。庭が大好きだったけれど、原稿を書くのは部屋の中だった。机の周りにはくしゃくしゃに丸められた書き損じの原稿が散らばっていて、どんよりとした空気が流れていた。庭にいる生き生きと楽しそうな母とは別人だった。幼い頃は「お話作り家」になりたいといっていた私が、物書きだけにはなりたくないなあと思った。
当時は、手書きの原稿を編集者に手渡すか郵送で送るのが普通のやり方だった。いつだったか原稿が入った「週刊文春」編集部宛の郵便を、学校に行く道すがらポストに投函してと頼まれたのにすっかり忘れ、教科書と一緒に学校に置きっぱなしにしてしまった。編集者からは何度も問い合わせの電話が入り、ちょっとした騒ぎになったことはよく覚えている。結局物書きになった私が、今でも締切という言葉と相性が悪いのはこのせいだろうか。
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