トリトンなくしてヤマト、ガンダムなし ~宇宙戦艦ヤマト①~

2010年代に入ってから、ウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」などが次々と40、50周年を迎えている。それらはみな、単に昔のものとしてあるだけでなく、現役のコンテンツとして新作が発表され、映像化、舞台化されている。逆算すれば分かるが、これらの大半は1970年代に始まった。 1960年に生まれ、アニメ、特撮ものを最初期からテレビで見ていた中川右介(作家、編集者)が「リアルタイムの記憶を基にして目撃譚」として描くサブカル勃興史。

「記憶をたどりながら書きますが、公にするからには、記憶にだけ頼り、間違ったことを書いてはいかないので、改めて調べ、事実確認をして書きます。歴史家的視点と、当時の少年視聴者・読者としての記憶とを融合させ、「読者・視聴者としてサブカル勃興期を体験した者が書く歴史」を提示したいと思います。(筆者)


●手塚、西崎、富野がそろった

「日本アニメ史における重要人物は誰か」という投票をすれば、必ずトップテンに入るであろう、手塚治虫、西崎義展、富野由悠季の3人が関わったテレビアニメがある。『海のトリトン』である。1972年4月1日から同年9月30日まで全27回がTBS・朝日放送系列で、土曜夜7時から放映された。後にも先にもこの3人がそろったのは『海のトリトン』のみで、原作・手塚治虫、プロデューサー・西崎義展、演出・富野喜幸(当時の表記)とクレジットされている。

いまから見ればアニメ界の三巨頭だが、西崎にとってはこれがアニメのプロデュース第1作であり、一般にはまだ無名だった。富野も虫プロで『鉄腕アトム』をはじめ手塚作品を手がけ、フリーになってからも多くのテレビアニメに関わったが、チーフ・ディレクターとしてはこれが初の仕事だった。この時点で子供でも知っている名前は、原作者の手塚治虫だけだ。

ところが、アニメ版『海のトリトン』に手塚は関わっていない。自作のマンガ『青いトリトン』のアニメ化を西崎に許可しただけだったとされている。このマンガは産経新聞に1969年9月1日から71年12月31日まで連載された。アニメになったのは連載終了から3か月後のことだ。

『海のトリトン』が放映された1972年は、手塚がアニメから離れていた時期にあたる。手塚治虫が1961年に創立した虫プロダクションは『鉄腕アトム』(1963-66)、『ジャングル大帝』(1965)、『ワンダースリー』(1965-66)、『悟空の大冒険』(1967)、『リボンの騎士』(1967-68)、『パンパイヤ』(1968-69)、『どろろ』(1969)と、手塚のマンガを原作にしたアニメを制作してきた(虫プロ商事制作の作品もある)。この後も『0マン』『ガムガムパンチ』『ノーマン』などのパイロット版が作られたが、手塚作品の人気がなくなり視聴率が見込めないとの理由でテレビ局に企画が通らなくなくなっていたという。

そこで虫プロは1968年から、手塚治虫とは関係のない作品を制作していく。江戸川乱歩原作『わんぱく探偵団』(1968-69)、石森章太郎原作『佐武と市捕物控』(1968-69)、トーベ・ヤンソン原作『ムーミン』(1969-72)、ちばてつや・高森朝雄原作『あしたのジョー』(1970-71)などだ。

手塚は虫プロが他のマンガ家の作品をアニメ化することに反対はしないし、そういう作品には何も口を出さない。制作はスムーズにいき、利益が出た。手塚作品をアニメ化すると、原作者でもある手塚がすべてを仕切ろうとするので時間がかかり、赤字になってしまう。手塚は「赤字が出たら自分がマンガで稼いで埋めるから、自分の言うとおりにやってくれ」と言った。実際、手塚個人が虫プロにかなりの金額を貸している。しかし、それは企業としては正しいあり方ではない。

企業としての虫プロは、手塚作品を制作しないほうが儲かる構造になっていた。そうやって利益を出してから、芸術的作品を作ればいいではないかというのが、経営安定化路線の主張だ。しかし手塚は、虫プロは作家集団だったはずだと、経営安定のためにテレビアニメを制作することに疑問を呈す。こうしてオーナーである手塚と、社員との間で路線対立が生じた。社員の多くが経営安定化路線を望んだので、手塚は71年6月にそれまでの債務を引き受け、虫プロから離れた。

手塚はすでに1968年にマンガ制作と著作権管理のための手塚プロダクションを設立していたので、今後はこの会社でアニメを作ろうと考えた。

一方、虫プロから著作権管理部門と出版部門が独立した虫プロ商事は、出版部門の責任者が1970年3月に交通事故死する不運に見舞われたこともあって、迷走を始めていた。労働争議が起き、社長は責任をとって退任、手塚が社長に就任する事態となった。しかし、手塚に経営手腕があるわけがない。西崎義展が手塚の周辺に現れるのは、こんな時期だった。

●西崎義展という男

西崎義展は2010年11月7日に小笠原諸島・父島へ遊泳のために出かけ、船上から海へ転落して亡くなった。この普通ではない死に方から「殺されたのではないか」との噂が流れたが、それは彼がいつ殺されてもおかしくないような生き方をしてきたからだった。

西崎の経歴については『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』(牧村康正、山田哲久著、講談社)に詳しいので同書を参照して記すと—1934年(昭和9)に東京で生まれている。父は大企業の役員を歴任する人で、資産家でありエリートだった。10歳で敗戦を迎え、私立の名門である武蔵高校に入学。東大を目指していたが、4年の浪人生活のすえ、日本大学芸術学部演劇科に入った。「浪人」といっても受験勉強をしていたのではなく、信州の建設現場で働いたり、劇団・文学座に入って俳優を目指したり、まさに「浪人」していたのだ。結局、大学にはあまり行かずに中退して、ジャズ喫茶の司会業からショービジネスの世界に入った、とされる。

芸能界に入った西崎は、創価学会系の民音に食い込んでプロデユーサーとして成功し、1963年にオフィス・アカデミーを設立する。しかし西崎の愛人問題や独断専行で社内に不満がたまり、民音に対して西崎を中傷する投書が送られた。民音はスキャンダルを嫌うので、西崎は切られた。その後も興行の仕事をしていたが、1968年に会社の資金1000万円を持ってヨーロッパへ行ってしまい、1年半ほど帰らなかった。夜逃げに近い。

帰国しても、芸能界、興行界に西崎の居場所はない。西崎は新天地を求めた。東洋広報という広告代理店の知人に「何か仕事はないか」と頼んで、虫プロ商事を紹介してもらった。1970年の半ばだった。虫プロ商事は東洋広報と取引しているので断るわけにはいかず、入社させた。しかし社員として雇用されたのではなく、外部スタッフ、嘱託のようなかたちで、虫プロ商事の営業の代行をすることになったとも言われている。西崎の虫プロ商事での身分については諸説あり、はっきりしない。

入社して数日後、西崎は虫プロ商事の雑誌に入る広告を取ってきた。読者層とは関係のなさそうな化粧品の広告で、まさに営業力だけで取ってきたものだ。すぐに「結果」を出し、虫プロ商事に現金収入をもたらしたので、誰も西崎に逆らえなくなっていった。

71年になると、西崎は実質的に虫プロ商事を指揮するようになり(71年2月に企画部長になった、あるいは社長代行となったという説もある)、売り上げ拡大のために事業拡大を図るが、現場は笛吹けど踊らずで、西崎の熱意は空回りした。それどころか、社員からの反感を買い、新左翼諸セクトが介入して労働争議に発展した。

一方で、西崎は御大・手塚治虫に食い込み手塚個人のマネージャーの肩書きも得ていた(これについても異説がある)。手塚の『ふしぎなメルモ』を大阪朝日放送に売り込み、テレビアニメ化に成功したのだ。もともとは小学館の「小学一年生」1970年9月号から『ママァちゃん』というタイトルで連載していたもので、手塚は当初からテレビアニメ化を考え、企画書が作られ、テレビ局に売り込んだが、採用されなかった作品である。

ところが西崎の手にかかると、あっさりと売り込みに成功したのだった。東京のキー局ではなく、大阪の局に目をつけたのが成功の理由だった。大阪の局が制作したものでも全国ネットされる。当時、大阪朝日放送はTBSの系列だったので、『ふしぎなメルモ』は1971年10月3日から72年3月26日まで、TBS・朝日放送系列の日曜夕方6時半から放映された。

当初の「ママァちゃん」というタイトルは商標の関係で使えなくないとわかって改題し、雑誌連載も『ふしぎなメルモ』に変更になった。制作は虫プロではなく、手塚プロダクションだ。手塚は作画監督として、自らレイアウト原画まで描き、かなり本気でアニメ制作に関わっている。

●『ふしぎなメルモ』から『海のトリトン』へ

かくして手塚にとって、西崎は救世主となった。手塚は西崎の手腕を称えた。西崎は、この手塚からの全幅の信頼を背景に虫プロ商事だけでなく、虫プロに対しても影響力を持つようになる。だが『ふしぎなメルモ』のスタッフとしては西崎の名はクレジットされていない。

『ふしぎなメルモ』は原作が「小学一年生」に連載されていたように、幼年向けのものだったので、僕は最初の回を見ただけだった。小学6年生男子でこれに夢中になっていたら、ちょっとおかしいだろう。

『ふしぎなメルモ』が72年3月に終わると、4月から『海のトリトン』が始まった。大阪朝日放送がキー局なのは同じだが、放映時間は「メルモ」の日曜夕方6時半ではなく、土曜夜7時になった。僕にとっては、1969年の『どろろ』以来の手塚アニメだ。

ところが、「原作・手塚治虫」なのに、その原作のマンガはどこにも見つけられない。僕の家は産経新聞を購読していなかったので、『青いトリトン』が連載されていたことを知らなかったのだ。単行本が『海のトリトン』と改題されて秋田書店のサンデーコミックスから出るのは、アニメの放映が終わってからの1972年12月だった。

虫プロは『青いトリトン』連載中からテレビ局に売り込むための8分40秒のパイロット版を作っており、手塚自身の絵コンテも残っている。しかし、これもどの局にも採用されなかった。それなのに、またも西崎は売り込みに成功したのだ。西崎は『ふしぎなメルモ』ではテレビ局へ営業しただけで、制作には関与していなかったが、『トリトン』では「プロデユーサー」としてクレジットされる。したがって、これが西崎のアニメ・デビュー作である。

『トリトン』は虫プロでも手塚プロでもなく、アニメーションスタッフルームという、元虫プロ商事の人たちを中心にしたプロダクションで制作された。同社から富野に総監督をやらないかと誘いがあり、彼は受けたのだ。虫プロを退社後はフリーとして多くのアニメに関わっていた富野だったが、総監督は初めてだった。富野が加わった時点では『青いトリトン』はまだ連載中だった。富野は原作のストーリーをなぞってアニメにすることは不可能と判断し、「トリトンというキャラクターはもらうが、オリジナルストーリーで作る」と決めた。

ここから、諸説入り乱れる。西崎と手塚の間で不明瞭な契約が結ばれ、『トリトン』の権利が西崎のものになったという。この「権利」がアニメ化権のことなのか、キャラクターのすべての権利のことなのかが明確ではない。さらに、手塚の「すべてのキャラクターの権利」も西崎が手にしたとの説もある。ようするに、手塚が西崎に騙されてよく読まずに何かの譲渡契約書に捺印してしまったようなのだ。『トリトン』放映開始の時点で、すでに手塚は西崎を忌み嫌っていたらしい。

クリエイターとしては天才だが、経営手腕、営業手腕のない手塚と、営業手腕と経営手腕しかない西崎とでは、人間としてのタイプがまったく異なる。2人の間に何があったのかは、よく分からない。当人は互いに語っていないし、周囲の証言も、この部分になると曖昧になっていく。この裏事情を追求するのはこの連載のテーマではないので、このへんでやめておこう。ともかく、『海のトリトン』は「なんだかよく分からないけれど手塚先生の原作らしいアニメ」として始まった。

広義のSFだが、海洋を舞台にしたのが新しい。さらに一話完結ではなく、大河ドラマのように長い物語が少しずつ進んでいくという点でも斬新だった。さらに回を追って謎が深まる。こういう作り方は、途中の回から見ると話がよく分からないので視聴率が伸びず、嫌われるのだ。案の定、『海のトリトン』も視聴率はふるわず、1年間の予定が半年で終わりになってしまった。

ただ、「イルカに乗った少年」であるトリトンは女子中学生・高校生の間で人気が出ており、ファンクラブが結成されるまでになる。そういう動きがあると僕が知るのは後のことだった。

日本映画に革命を起こした角川映画、その最初の10年を描いた疾風怒濤のノンフィクション!

角川映画 1976-1986(増補版) (角川文庫)

中川 右介
KADOKAWA/角川マガジンズ; 増補版
2016-02-25

角川新書

この連載について

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すべては1970年代にはじまった

中川右介 /角川新書

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NakagawaYusuke いよいよヤマト編。しかし、ヤマトの前に、トリトンを語らなければならない。 |すべては1970年代にはじまった https://t.co/QzEKK6Rh6m 6日前 replyretweetfavorite