終】〝野球〟に囲まれて、かれは生きてきた

2130という先人の記録を塗り替え、前人未踏の挑戦を続ける衣笠が次に立てた目標は、40歳を超えても現役を続ける上でのトレーニング手法を、身をもって試していくことだった。そしてそれは何より、今後この記録を打ち破る選手と、自分たちが見てきた同じ風景について語り合うためだった。鉄人・衣笠祥雄の素顔を描いた山際淳司「バットマンに栄冠を」cakes連載版、最終回。

「正直いって、引退を考えたことは何度もあるよ。例えばね、昭和59年にMVPをとった。初めて3割も打った。打点王のタイトルもとった。あの時点でやめたらカッコいいだろうなと思いましたよ。だけどやめられなかったね。そしたら翌年、成績が下がった。今度は、このままじゃやめるにやめられないと思った。タイミングを失したんだよ。ハハハハ」

 そう笑いとばしたあと、かれはつづけていうのだ。

「ユニフォームを脱ぐのは、実感としてはわからないけど、寂しいことだと思う。だって、もう二度とあのバッターボックスに立てないんだよ。それがどういうことかわかる? あそこほどスリリングな場所はないんだ。三つストライクをとられる前に、打つ。集中力、読み、技術、力……そのすべてが一瞬のうちにためされるんだよ。ぼくはギャンブルをやろうなどと考えたことは一度もない。なぜなら、あのバッターボックスに立っているときのほうが、他のどんなことよりもスリリングなんだからね」

 キャンプのときにはこういっていた──、

「ユニフォームを脱いでも、それまでと同じようにロッカールームに入っていかれると思うんだ。みんな、それまでと同じようにぼくを迎えてくれるだろう。大笑いしながらバカ話をして、リラックスして、それからゲームにのぞむ。そこまでは同じだよ。だけどね、ぼくはロッカーに一人とり残されてしまうんだ。いや、その前にロッカーを出なくちゃいけないな。もうみんなと同じようにユニフォームを着てダグアウトに行くことができない。あたたかいキャンプ地で、春の日ざしをあびながら外野の芝生の匂いをかぎ、柔軟体操をすることもできないんだからね」

 バッターボックス。ロッカールーム。ダグアウト。外野の芝。そして試合が始まった直後の、まだ誰もスパイクのあとをつけていない真っ白な三塁ベース……。

〝野球〟に囲まれて、かれは生きてきた。そして、野球があらゆるものを自分に与えてくれた。高額な年収。記録。名誉。そのうえさらに自分なりの世界観をも作り上げてくれた。

「だからね、ぼくにはもう次に何をやるべきか、見えている」
 衣笠はいった。

「これからは、自分のこの体を使って、ちょっとした実験をしてみようと思うんだ」

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衣笠祥雄 最後のシーズン

山際淳司

2018年に亡くなったプロ野球界の往年のヒーローである衣笠祥雄と星野仙一。彼らと同時代に生き、信頼も厚かった作家は、昭和のレジェンドたちをどう描いてきたのか。8月に発売された山際淳司のプロ野球短編傑作選。 本連載では、表題作でもある「...もっと読む

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