6】ゲームを休みたいといおうとして、いえなかった

自分からゲームを休みたいといおうとして、いえなかった、と衣笠は吐露する。それはチームにとって衣笠が精神的な支柱になっていたことが一つ、そしてそれ以上の理由が、この記録が自分一人で積み上げてきたものではなかったからだった。鉄人の弱さ、そして強さを描いた山際淳司「バットマンに栄冠を」cakes連載版、第6回。

 夏になって、衣笠は「3回ほど」今日はゲームを休もうと、考えたことがある。

 地元、広島でナイトゲームがあるときは、午後2時ごろ家を出る。

 出がけに、かれは夫人にいった。今日はゲームに出ないぞ、そのつもりでいてくれよな、と。そのつもりでいてくれ、というのは、気持ちの準備をしておいてくれ、ということである。ひとたびゲームを休めばそれを「事件」として自宅まで取材におしかけてくる連中もいる。

 そしてクルマに乗りこむ。球場に着きユニフォームに着がえたら自分から監督に申し出るべきだろう。その自分の意思が受けいれられれば、スタメンから外され、代打で出ることもなくなる。連続出場の記録が途切れる。カープ担当記者たちは、一斉にかけよってくるだろう。記者会見を行うことになるかもしれない。そのほうが混乱を避けられるからだ。

 そうなったにしても、自分は笑顔で話ができるだろう。大丈夫だ。いつものように明るく語ることができる……。そう思って球場に着く。

 ユニフォームに着がえて、グラウンドに出る。すでに若い選手たちが汗を流している。外野を走っている選手がいる。特打ちをしている選手がいる。バッティング投手の額から玉のような汗が流れている。その練習ぶりを監督、コーチがじっと見つめている。チームは今日もまた、勝とうとしている。

「それを見ていると、言いだせなかった。よし、今日も頑張ろうと勇気づけられる。自分から監督に今日は休ませて下さいと申し出ることで、今日もまた勝とう、今年も優勝しようとしているチームに、不必要なさざ波を起こすんじゃないか。そんなことも気になる。監督が今日もスタメンに起用し、さあゲームに臨もうというのなら、その期待に精一杯こたえようとするのが選手のつとめなんじゃないか。やるしかないんだ……」

 そう思いなおす。いうべきか、いわざるべきか。ハムレットの心境である。

 衣笠は、自分からゲームを休みたいといおうとして、いえなかった。

 阿南監督はいう──「昨シーズン、衣笠抜きでゲームをやろうなんて考えもしなかった」と。

「たしかに、かれはバッティングに苦しんでいた。だけれども、問題はかれの打率だけじゃない。打率が下がったからメンバーから外すというだけではチームは成り立たないと思う。それ以外の要素がある。衣笠という選手がラインアップに並んでいることで相手の投手に与える威圧感もある」

 ヒットの数でいえば2500本に近づいている。ホームラン数はまもなく500本の大台にのる。王貞治の記録には遠く及ばないが野村、山本浩二、張本につぐホームラン記録である。連続出場をつづけながら、衣笠はそれだけのものを積み上げてきた。

 それがあるから、簡単にゲームから外れるわけにはいかない。

 さらにもう一つ。

 この記録は、衣笠一人で築いてきたものではない。そのことを、衣笠はしばしば口にする。

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衣笠祥雄 最後のシーズン

山際淳司

2018年に亡くなったプロ野球界の往年のヒーローである衣笠祥雄と星野仙一。彼らと同時代に生き、信頼も厚かった作家は、昭和のレジェンドたちをどう描いてきたのか。8月に発売された山際淳司のプロ野球短編傑作選。 本連載では、表題作でもある「...もっと読む

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