「野球は不思議だよ。特に、バッティングはね。こうだと思うとはぐらかされる。それじゃこうすればいいんだと考えて、わかった気になるとそのまた向こうに謎がみえてくる。ほんとに不思議なんだ……」
話をしているのは衣笠だ。
ナイター練習が終わったところだった。
ダグアウトにひきあげてきたところで、珍しく立ち止まった。話をしたかったのかもしれない。数人の記者がかれのまわりに集まってきた。みな、これから始まるシーズンが衣笠にとってどういう意味をもつのかを知っていた。
オープン戦のあいだ、ライト方向にばかりヒットがとびだしたことをどう考えているかというのが、そのときの話のポイントだった。
衣笠は苦笑した。
たばこに火をつけた。ゆっくりとけむりを吐き出した。
たしかにそのとおりなのだ。外角球に無理なくバットをだすと、打球はラインドライブを描いてライト前に飛んでいった。そういうヒットを何本も打てた。そのかわり、衣笠らしい、力強い、左方向に飛んでいくヒットがなかった。
「気がついてたよ」
と、衣笠はいった。
「だからオープン戦の最後になって引っ張ってみたんだ。ところが、みんな内野ゴロになってしまう。たしかそういうケースが七回つづいたよ」
かれ自身の記憶は正確だった。
「ライト打ちにバッティングを変えたんですか」
「あっちに打てば確実にヒットがでるのなら変えるけどね……」
衣笠は笑った。そういうことではないと、かれはいうのだった。オープン戦のあいだ、強引にインサイドをついてくるピッチャーがたまたま少なかった。まだ公式戦が始まってもいないのに、特に衣笠のように「記録」を目前にしているバッターにたいしてきわどすぎるようなボールを投げるのは、ピッチャーにとっては、ちょっとばかし勇気のいることかもしれない。公式戦が始まれば、そんなことをいっていられない。オープン戦と公式戦とは、そういうところでも微妙に異なる。
かれは、おのずとアウトサイドの球を打つことになった。しかも、いずれもいい感じで打てた。
「外を狙っていたこともたしかだね。それでああいう打ち方になった。すると今度は内側が打てなくなってしまう。おれは器用じゃないということに、あらためて気づいたよ」
ふっと、足もとを見て、また笑った。何年やっても野球はミステリーだ。バッティングは特にそうだ。
衣笠が誇れる記録は、連続試合出場だけではない。通算ホームランの数(昨シーズンまでで487本)では、王、野村、山本浩二、張本についで第5位。あとひといきで4位の張本の504本を超えるところまできている。通算安打(2451本)は、シーズン途中で2500本に達するだろう。三振数(1526個)ではすでにトップに立ち、他を引き離して独走している。もうひとつのデッドボールに関する記録もあり、かれはすでにセ・リーグ記録をやぶり、今は日本記録(竹之内雅史のもつ166死球)に近づいている。
それが衣笠祥雄という、四十歳になる野球選手なのである。
かれは野球というゲームのあらゆる側面を見てきているはずだった。ホームランの快感。三振の苦味。優勝の味。カープが万年Bクラス・チームであったころの屈辱感。体が自分でもびっくりするほど躍動し、どんな球がきても打てるし捕れるという時期もあれば、それとは逆にどうあがいてみても打てないスランプの時期もある。いくつもの極をみてきた。それでもまだ分からないことがある。
衣笠は天才型の選手ではない。壁にぶつかることが多い。そのたびに考えこみ、一つひとつ問題を解決してきたのだが、常にその先があるのだ。
だからバットを置くことができない。
衣笠祥雄という選手が、なぜいつまでもゲームに出つづけることにこだわるのか。その「なぜ」にはいくつもの答えがありうる。記録にたいする欲。それがもたらすであろう様々な果実。しかしそれだけではない。どこまでやっても、まだその先がある、野球というゲームの不可思議な魅力に、幸いにも、かれはとりつかれてしまったのだ。
ぼくはそう考えている。
それはともかく──。
プロ野球がいよいよ始まるという、その数日前の、広島球場のダグアウトに話をもどそう。
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