■1 電子の国の異邦人
◆そばとねぎ
畳敷きの六畳の部屋は、壁の三面が木製の本棚で埋まっている。その小さな本の城の奥には、寄せ木細工の分解式文机が置いてある。文机の左手には枕箪笥があり、幾葉もの栞を納めている。
押し花をあしらったもの、繊細な切り絵を施したもの、金属の板でできたもの。半透明の樹脂、木の薄片、ゴムでできたものもある。
春日枝折は、数々の栞を収集して、その日の気分で取り替えている。
本に囲まれた生活。大学の学部は文学部で古典を学んでいる。サークルは文芸部で現代小説を中心に読んでいる。趣味は栞集めに古書店巡り。そうした生活に溺れたのは、母の影響が強い。
枝折は実家での光景を思い出す。母と並んで本を読み、その姿をながめて、父が楽しそうにビールを飲んでいる。
母は高校の国語の教師。父は長野の山奥にある、そば農家の長男。枝折はその家の一人娘として、二人の愛情を一身に受けて育った。
高校を卒業して、進学のために引っ越す時、父は寂しそうに泣いた。母は存外さっぱりしたもので「東京の古本屋は、面白い本がいっぱいあるんだろうね」と羨ましそうに言った。
それから三年と少しの時間が経った。枝折は今、就職活動をしている。小説が好きな枝折は、当たり前のように出版社を目指していた。
「ふふ」
笑みを漏らし、枝折は文机に置いた手帳の文字に目を落とす。ガラスペンで書いた柔らかい線。S、Kといったイニシャルだけの社名の横に、企業研究の結果をまとめている。
学内で手帳を覗かれた時に、からかわれないための対策だ。かのレオナルド・ダ・ヴィンチは、鏡文字を使ったという。そうした特技がない枝折は、イニシャルで秘密の情報を記している。
日本に出版社は多い。全ての会社を頭文字だけで表せるわけではない。同じ文字が重なることもある。その際は、第一志望に近いほど、短い文字で表している。
小学館はS。集英社はSH。私だけの優先順位が、文字の数で分かる。
ページをゆっくりとめくり、本に関わる仕事に就いた自分を想像する。多くの作家に会い、書店に並ぶ本を作るお手伝いをする。自然と顔がほころぶ。その仕事に一生を捧げる自分を思い描く。将来の夢。これから歩むはずの人生——。
スマートフォンがけたたましく鳴った。妄想から呼び戻された枝折は、眉を寄せて電話に出る。
「なに、弥生」
「今、暇? 飲みに行かない」
「あんた、暇人ね。私、お金ないわよ」
「ふははは、小銭が入った。奢ってやるぞ」
カレンダーに目を落とす。そういえば今日は、文芸系の同人誌即売会のあった日だ。弥生は学生のくせに、作家にインタビューして、その内容をまとめた小冊子を作っている。同好の士には受けがよく、イベントに出るたびに数万円の利益を生んでいるそうだ。
「なあなあ、枝折。同じ文芸部の仲間として、私の飲みに付き合ってくれよぉ」
飲む前から、くだを巻いた調子で弥生は言う。
「仕方ないわね。部長の頼みは、断れないわね」
「よしっ、それでこそ我が友」
枝折は手帳を閉じ、大きくため息を吐く。
島崎弥生と、枝折の腐れ縁は、大学入学の頃に遡る。入学式の直後、文学に興味のある人間を獲得するために、先輩たちは新入生に近づき、ささやき作戦を実行した。
弥生は「ドグラ」と声をかけられて、「マグラ」と返したそうだ。
他には「桜の森の」と問われて「満開の下」と答えた者もいる。「陰翳」と耳に吹き込まれて「礼讃」と応じた者もいる。
枝折は「或阿呆の」だった。「一生」と口にしたら拉致された。そして、暗い部室に引きずり込まれて、先輩たちや同期となる仲間たちと顔を合わせた。
その面々の中に弥生もいた。脱色した髪、耳にピアス。一見してロック歌手に見える風貌だが、中身は文学少女。なぜこんな、けったいな奴がいるのだと思い、距離を置いていた。その相手に、半月ほど経った時に告白された。
「私、大学デビューなんだ」
聞くと、千葉のねぎ農家の娘らしい。そばとねぎ。なにか因縁めいたものを感じた。それ以来親しくなり、行動をともにするようになった。
スニーカーを履き、アパートを出る。住んでいるのは大学近くの部屋。弥生のねぐらとは五十メートルも離れていない。
枝折は、信州という居酒屋を目指す。枝折と同じ長野県出身者が店主をしている店だ。店主が文学に明るく、文芸部の御用達になっている。枝折も酒をちびちびとやりながら、趣味の小説や、授業で使う源氏物語や伊勢物語などを読んでいる。
店に着いた。暖簾をくぐり、座敷席を見渡す。Tシャツにレザースキニーパンツのロック歌手もどきが、ビールのジョッキを持っていた。
「ようっ、フエツ」
弥生がこぼれそうな笑顔で、手招きしてくる。
「誰がフエツだ」
額に空手チョップを叩き込み、座卓を挟んで座る。
フエツというあだ名は、一年生の夏休みに弥生が命名した。本の栞の語源になった、山道で枝を折る行為。自分の名前にちなんで、栞を集めていると話すと、弥生は大笑いした。
「山でたおやかに枝を折るよりも、斧や鉞で木を切り倒して進みそうだよな。本が好きで、本人は文学少女だと思っているみたいだけど、外から見るとワイルド系タフネス女だし」
斧と鉞。弥生は自分の発言が気に入ったらしく、枝折に斧鉞というあだ名をつけた。「斧鉞を加える」という、添削を意味する言葉もあるから、文学少女っぽいよなとも言われた。
「なあ枝折、就職活動はどうだ」
弥生の言葉に、口を思わずへの字にする。
「万事順調よ。まだ成果は出ていないけど、これは私が、意中の会社に入るための伏線なの」
「そうか、まったく進展なしか」
予想したとおりだな。そう言いたげな顔つきで弥生は言う。
「そういう弥生はどうなのよ」
ビールを注文してから、座卓に肘を突いて顔を寄せた。
「決まったよ。IT系のメディア企業だよ」
驚きとともに弥生の顔を見る。
「おいおい弥生殿。文学はいずこに?」
普段の言動とはかけ離れた就職先に、思わず突っ込みの言葉を入れる。弥生は軽い笑みを浮かべて、枝折の問いに答える。
「私がやりたいことってさ、本を作ることじゃないんだよ」
「じゃあ、なんなのよ」
「本を作る人と読者を結ぶこと。その架け橋になりたいんだ。それってさあ、既存の出版社じゃなくても、できるなって考えたんだよ」
とびきりの笑顔で弥生は言う。
裏切り者という言葉が、頭の中でトムとジェリーのように跳ね回る。
「枝折は出版社なんだろう」
「ええ、まあ、そうね。そのように運命は決まっているわ」
しかし成果はない。今にも折れそうな心を必死に支えながら、弥生に答える。
「応援している」
「いきなり上から目線ね」
弥生は、少年のように口元を広げる。くそっ、いい笑顔だな、と思った。
ビールが来た。ぐいっと一杯あおる。親友の就職活動成功に乾杯! そして自分の未来に乾杯!
「なあなあ、フエツ」
「なによ、弥生」
「就職先の先輩から聞いたんだけどさ、斧や鉞ってのは、IT業界に関係する言葉みたいだぞ」
「そうなの?」
枝折は好奇心を目に浮かべる。
「ハッカーという言葉は知っているか」
「聞いたことあるわね」
「ハッカーってのは、ハックする人って意味なんだけどさあ、ハックの意味はなんだと思う」
「うーん、日本語なら自信があるんだけどねえ。英語はねえ。異国の言葉じゃない」
こめかみに拳を当てながら答える。
「ハックというのは、鉈や斧や鉞や山刀で、ガシガシとジャングルを切り開きながら進むことだそうだ。
まあ一言で言うと、大雑把で雑な仕事だな。とはいえ、そんなやり方でも目的を達成すれば、御の字というわけだ。というわけでフエツ、君にこの言葉を贈るよ。ハックして道を切り開いてくれたまえ」
弥生は悦に入り、しきりにうなずいた。
「いや、私の人生を、そんな雑な言葉でまとめられても困るんだけど」
冷めた口調で返す。
「とはいえ、雑そうだしなあ、枝折は」
何度も点頭しながら弥生は言う。そんなことはないと弥生に反論する。弥生は合気道の達人のように枝折の言葉を受け流した。
「それにしても就職かあ」
枝折はため息を吐く。私は上手くこの分岐点を乗り切れるのか。望む人生を手に入れられるのか。枝折は苦いビールを飲みながら、弥生と語り合う。
それから数ヶ月、枝折はひいひいと言いながら、東京に無数にある出版社を巡った。そして、思いもかけぬ人生を歩み始めることになった。
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次回「紙の城の電子の騎士 老舗出版社新入社員・春日枝折の憂鬱」は10/6更新予定。