縄文人たちは竪穴住居に住み、 狩りをして生活していた……わけではない
みなさんは、縄文時代と聞くと、どんなことを思い浮かべるだろうか——。
狭くて暗い竪穴住居に住み、粗末な毛皮や布きれを身にまとい、髪の毛はぼさぼさ、髭ぼうぼうの男たちが弓矢で狩りをして生活している。
そんなイメージが頭に浮かんでくるかもしれない。
ただ、そのイメージは、今日からすっぱりと捨て去ってほしい。
おそらく日本史の教科書で一番記述が変わったのは、縄文時代ではないかと思っている。
それほど大きく変貌しているのだ。
その画期となったのは、一九九二年から発掘が始まった青森県の三内丸山遺跡の成果である。
縄文人は多くても二十~三十人程度の集団で暮らしていたと考えられていたのに、なんと三内丸山遺跡では、最大で五百人近い人々が生活していたことが判明したのだ。
しかも集落は千五百年もの間存在し続けた。
そのうえ発掘された品々がスゴかった。
話題となったのは直径約二メートルの柱穴である。
ちょうど四・二メートルという等間隔で三つの穴が二列で発見されたのだ。
穴の中には一メートルを超える柱(クリ材)が残っていて、太さから推定すると十~二十メートルの高さの柱が立っていたのは確実とされる。
さらに穴にかかる加重を計算すると、柱にはなんらかの構造物が乗っていた可能性が高いという。
つまりそれは、巨大神殿だったかもしれないのだ。
縄文人といえば、穴を数十センチ掘りくぼめ、草で 葺ふ いた屋根を乗せただけの狭い竪穴住居を住処としていたと思われるが、こんな高度な建築技術を持っていたわけだ。
それだけではない。
数十メートルを超える長大な建物跡も次々と発掘された。
教科書にも「青森県三内丸山遺跡のように、集合住居と考えられる大型の竪穴住居がともなう場合もある」 (『詳説日本史B』山川出版社 二〇一八年)と明記されている。
集合住居!——すなわち縄文時代にアパートに住んでいた人がいたのである。
このほか、多くの斬新な発見があったことから、東京書籍の教科書『新選日本史B』(二〇一七年)は「縄文人の生活を探る 三内丸山遺跡―1500年の定住生活」と題する特集まで組んでいる。
ところで昔は、縄文人は狩猟採取の生活をしていたと学校で教えていたが、板付遺跡(福岡県)や菜畑遺跡(佐賀県)で縄文晩期の水田跡が発見され、この時期に九州では稲作が行われていたことが確実となった。
だから教科書にも「縄文時代の終わり頃、朝鮮半島に近い九州北部で水田による米づくりが開始された」(『詳説日本史B』山川出版社 二〇一八年)と記されるようになった。
ちなみに縄文時代と弥生時代の区切りは、弥生土器が出土するかどうかで決まる。
だから水田跡が見つかっても、出てくるのが縄文土器なら縄文時代に区分される。
だが、稲作の開始を時代の転換ととらえ、縄文晩期を弥生早期と改めるべきだとする説も有力となっており、さっそく教科書でも脚注にその説が登場してきている。
さらに驚くべきは、「水稲農業は」「西日本一帯に急速にひろまり伝播の波の一部は、ほぼ同時期に東北地方北部まで達した。やがて中期以降には東日本でもひろく稲作が普及した」(『日本史B』実教出版 二〇一八年)と記す教科書が登場してきたことだ。
私たちは九州北部から入った稲作は西日本から東海、関東を経て東北へ入ったように思い込んでいたが、関東のほうが東北よりも稲作の導入が遅かったことが近年判明してきているのだ。
この時期の関東は、自然が豊かで狩猟採取で十分暮らせたので、あえて稲作を導入するメリットがなかったと考えられている。
さらにビックリなのは、かなり早い段階で稲作を導入した東北地方の北部(青森県)だったが、なぜか開始から三百年ぐらい経つと、稲作を放棄して元の狩猟採取の生活に戻ってしまっていることである。
その理由だが、稲が実らない北海道では本土とは異なる続縄文文化(狩猟採取の文化)が花盛りで、この生活形態が南下してきたためと考えられている。いずれにせよ、狩猟よりも稲作のほうが文明的だという私たちの概念が完全にくつがえるだろう。
縄文時代の始まりがいつなのかについても、通説は変化している。
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