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「灰江田ちゃん、こっちこっち」
ホテルのティーラウンジに着くと、山崎が声をかけてきた。半個室になったスペースは、灰江田が予約しておいた。その場所に、山崎と静枝がすでに来ている。静枝は今日は、こざっぱりとしたスーツを着ている。灰江田は二人に挨拶をしてコーギーとともに席に座った。
「お待たせしました」
「灰江田ちゃんたちが遅れたらどうしようと思っていたよ」
山崎が、時間を気にするように言う。
「さすがに大丈夫ですよ。まだ四十分以上ありますから。それに俺たちの方が遅くなることはないです。会場で顔は見かけませんでしたけど、カンファレンスの準備でヒューゴー氏もあちらにいたでしょうから。そうでなければ講演の一時間後なんて指定しないですよ」
灰江田は講演が終わってすぐに会場を出た。瞬間移動でもしない限り、追い越されることはない。
「それにしても、灰江田さんが父を見つけ出すとは、思っていませんでした」
静枝が、感心した様子で言う。
「まあ、俺自身も、今回は無理かなと思っていたしな」
「あと、灰江田さんの評判を、業界の人に聞きました」
「へー、どうだった」
「面倒見がよく、いい仕事をするけど、金儲けは下手だそうです」
「うへえ。随分と辛辣だな」
「私の意見ではなく、あなたの同業者の意見です」
灰江田は肩をすくめてから、コーヒーを注文する。そのあと、ポケットからあるものを出してテーブルに置いた。ヒューゴー・アックスが、赤瀬裕吾なら反応するはずのものだ。
約束の時間になった。アルゴ・エドの社長ヒューゴー・アックスが、四十代ぐらいの女性秘書とともに現れた。
灰江田は立ち上がり、ヒューゴーたちを迎える。ヒューゴーは、長身痩躯を仕立てのよいスーツで包んでいた。白いものがまじった髪はオールバックにしている。あごと鼻の下は髭に覆われ、顔には深いしわが刻まれている。彼は銀縁の眼鏡をかけており、目の下に隈があった。その目からは冷たい光が発せられている。冷酷な経営者。そうした印象の男だった。
「初めましてヒューゴー・アックスです」
アルゴ・エドの社長は、その場にいる全員に向けて、日本語で語りかけた。低く重い声。なまりはない。日本で育った者が話す日本語だ。赤瀬裕吾だ。おそらく灰江田だけでなく、他の者も同じ意見を持っただろう。
ヒューゴーが、空いた席の前に置かれたものに気づく。顔に驚きの色が浮かんだ。鶴や犬や象──折り紙の動物。それは、静枝が持ってきたアルバム、雑誌のインタビュー記事、アルゴ・エドのパーティーの写真、いずれにも写っていたものだ。
灰江田は挨拶する。そして、まずは山崎のことを紹介した。
「今日、同席してもらう、白鳳アミューズメントの山崎さんです」
会社名を聞き、ヒューゴーの目が大きくなった。灰江田はその様子を確かめ、話を続ける。
「山崎さんは版権管理部の部長で、UGOコレクションという赤瀬裕吾さんのゲームコレクションの、移植プロジェクトを推進しています」
鋼鉄のビジネスマンといった印象だったヒューゴーが、動揺するのが分かった。やはり、ヒューゴー・アックスは赤瀬裕吾なのだ。灰江田は追い打ちをかけるように次の同席者の名前を告げる。
「こちらは鈴原静枝さんです。鈴原房枝(ふさえ)さんと赤瀬裕吾さんの娘さんになります」
ヒューゴーの顔が青ざめる。秘書の女性が、怪訝な様子でヒューゴーと灰江田たちを見比べる。灰江田は移植担当者としてコーギーも紹介した。
ヒューゴーは立ったまま折り紙の動物を取り上げた。指先はわずかに震えている。ヒューゴーは手元を見ながら、呆然とした顔をしている。
「赤瀬裕吾さんですね」
沈黙がしばらく続く。
「そうだ」
返事を聞き、灰江田は安堵の息を漏らす。ここまでして人違いだったでは目も当てられない。秘書の女性は戸惑っている。おそらく日本での名前を聞いたことがないのだろう。赤瀬は、身近な人間にも過去を告げず、故郷を遠く離れた土地で暮らしていた。もう赤瀬も理解しているだろう。この場を設けた目的が商談ではなく、彼の日本時代の出来事だということを。
「お父さん」
静枝の声に赤瀬は答えない。秘書がなにか言おうとした。その発言を手で遮り、赤瀬は灰江田に視線を向ける。
「今日の目的は、なんでしょうか」
席に着き、赤瀬は告げる。赤瀬は娘を無視して、灰江田だけを相手にしようとする。立ちはだかる巨大な氷壁。彼は、威厳あふれるビジネスマンの表情を取り戻していた。
「二つあります。どちらも、あなたの過去にまつわることです」
灰江田の言葉に、赤瀬は全身に緊張をみなぎらせる。
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