永遠に生きるエドガー、アラン、メリーベルの物語 ~『ポーの一族』と『ベルサイユのばら』①~

2010年代に入ってから、ウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」などが次々と40、50周年を迎えている。それらはみな、単に昔のものとしてあるだけでなく、現役のコンテンツとして新作が発表され、映像化、舞台化されている。逆算すれば分かるが、これらの大半は1970年代に始まった。 1960年に生まれ、アニメ、特撮ものを最初期からテレビで見ていた中川右介(作家、編集者)が「リアルタイムの記憶を基にして目撃譚」として描くサブカル勃興史。

「記憶をたどりながら書きますが、公にするからには、記憶にだけ頼り、間違ったことを書いてはいかないので、改めて調べ、事実確認をして書きます。歴史家的視点と、当時の少年視聴者・読者としての記憶とを融合させ、「読者・視聴者としてサブカル勃興期を体験した者が書く歴史」を提示したいと思います。(筆者)

最初に読んだ少女マンガは、手塚治虫の『リボンの騎士』だった。一九六八年から小学館が新書判の「手塚治虫全集」を刊行していて、一九六九年二月から四月にかけて『リボンの騎士』全三巻が発売されて、それを読んだのだ。だから小学二年の終わりか、三年になった頃だ。学校に持っていって読んでいたら、「女のマンガを読んでるー」とからかわれたのを覚えている。

 それ以外では、小学館の学年誌に、バレリーナを目指す女の子のマンガが連載されており、それも読んでいたが、これは雑誌に載っていたので読んでいただけだ。

●男子が読んでもいい少女マンガ

男子も少女マンガを読むようになったのは、浦野千賀子『アタックNo.1』と、神保史郎・望月あきら『サインはV!』からだ。テレビでアニメ化、ドラマ化され、みんな見ていたので、その続きを早く知りたい子が原作のコミックスを買って、それが回し読みされたのだ。

『サインはV!』のテレビドラマは一九六九年一〇月、『アタックNo.1』のテレビアニメは一九六九年一二月に始まっている。つまり僕が『リボンの騎士』を読んでいてからかわれてから一年もたたずして、少女マンガは男子にも解禁されたのである。

 もっともこの二作は少女マンガというよりは「スポーツもの」として読まれていた。これによって少女マンガの面白さに開眼して、男子たちが「マーガレット」や「りぼん」を読むようになった—というわけではない。少女マンガ雑誌は女の子のもので、書店で手に取るのさえ、はばかられる雰囲気があった。

 僕が少女マンガと再会するのは、中学生になってからだった。萩尾望都の『ポーの一族』である。

●少女マンガ新時代

萩尾望都は、いわゆる「花の二四年組」のひとりだ。少女マンガ界では昭和二四年(一九四九年)前後に生まれた大マンガ家が多いのだ。一九四九年生まれは団塊の世代の最後にあたる。

 日本のマンガ市場は団塊の世代が作ってきた。彼らが一〇歳前後となる一九五九年に「少年サンデー」と「少年マガジン」が創刊されたのは偶然ではなく、この世代の人口が多いのでいい市場になると、小学館と講談社が見込んだからだ。

 さらに一〇年が過ぎて一九六八年になると、「少年マガジン」は二〇歳前後となっていた団塊の世代へ向けて劇画重視の誌面に変えており、『巨人の星』『あしたのジョー』を擁し一〇〇万部を突破していた。一方の「少年サンデー」は小中学生向けを維持し、その代わりに小学館は二〇歳前後へ向けて「ビッグコミック」を創刊した。この男子向けのマンガ市場の変化に、当然、女子向けのマンガ雑誌も連動していく。

 少女向けの雑誌は六〇年代前半までは、講談社の「少女クラブ」(一九二三年「少女俱楽部」として創刊)、講談社の「なかよし」(一九五四年創刊)、集英社の「りぼん」(一九五五年創刊)などの月刊誌が競っていた。しかしここにも週刊誌時代の波が押し寄せ、まず講談社の「少女クラブ」が一九六二年に終刊となり、週刊「少女フレンド」に代わった。

 これで少女向け週刊誌時代が始まり、集英社も一九六三年に「週刊マーガレット」で参入し、同誌からは六四年に月刊「別冊マーガレット」、六七年に季刊(後、隔月刊)「デラックスマーガレット」も出て、さらに六八年に集英社は「週刊セブンティーン」も創刊した。

 この流れに小学館は後れをとっていた。「少年サンデー」の後を追って、月刊「少女サンデー」を一九六〇年九月(発売は八月)に創刊したが、一九六二年四月号で休刊してしまい、トラウマとなったのか、以後、このジャンルには手が出せないでいた。しかし一九六八年、月刊「少女コミック」を創刊して再参入し、翌六九年には月二回刊、七〇年には週刊にこぎつけた。

 こうして一九七〇年代に入ると、少女マンガ週刊誌は講談社の「少女フレンド」、集英社の「マーガレット」、小学館の「少女コミック」の三誌となった。「セブンティーン」もマンガが多く掲載されていたので、含めてもいい。

 月刊誌も健在で講談社の「なかよし」、集英社の「りぼん」があり、やがて七四年に白泉社の「花とゆめ」(七五年から月二回刊)が創刊される。

 雑誌が多くなればマンガ家が足りなくなる。新人にとってはチャンスだった。かくして一九七〇年前後から、一〇代のマンガ家が次々とデビューするようになる。

 一〇代ということは読者と同年代ということだ。少年マンガでは一九六八年創刊の「少年ジャンプ」が積極的に新人を起用していたが、その最初のスターである永井豪が一九四五年生まれ、本宮ひろ志が一九四七年生まれなので、二四年組とも近い。

●萩尾望都と竹宮惠子との出会い

萩尾望都は福岡県に生まれ、高校卒業後、デザイン専門学校で学びながらマンガを描いて、雑誌に投稿していた。一九六八年に集英社の「別冊マーガレット」五月号で金賞を受賞したが、作品は掲載されなかった。翌年、休暇で東京へ行った際につてをたどって講談社の「なかよし」編集部へ行き作品を見てもらった。「短いものを描いてみてくれ」と言われ、『ルルとミミ』を描き、採用されてデビューした。以後、六九年から七〇年にかけて何作か「なかよし」「別冊なかよし」に描いていた。

 萩尾望都が講談社の「なかよし」編集部を訪ねたある日、同社別館にカンヅメになっていたのが竹宮惠子で、編集者が二人を引き合わせた。これが日本マンガ史に残る出会いとなる。

 二人は意気投合し、竹宮がその時に抱えていた原稿の残りは、萩尾が手伝って完成させた。当時の萩尾はまだ福岡県大牟田市の実家で暮らし、時折上京していた。東京では練馬区大泉に住む彼女のファン、増山法恵の家に泊めてもらっていた。竹宮も徳島の実家におり、締め切りになると上京し、出版社の用意する旅館にカンヅメになっていた。

 その後、竹宮は練馬区桜台の借家で暮らすようになった。この時、萩尾望都に「ルームシェアしないか」と誘ったが、彼女は東京へ出ることもマンガ家になることも両親の承諾が得られない。一方、竹宮は萩尾から増山を紹介してもらい、同じ練馬区なので行き来するようになった。その増山の家の前にある古い二軒長屋の片方が空いた。増山は、竹宮と萩尾に、二人でそこへ住み、トキワ荘のような暮らしをしないかと提案した。

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NakagawaYusuke すべては1970年代にはじまった 「ポーの一族」です。 https://t.co/oVviAqy893 約1年前 replyretweetfavorite