一故人

​浅利慶太—「芸術の毒」と「政治」をつないだ手腕

演出家として活躍し、劇団四季を率いて日本の演劇シーンを変えていった浅利慶太。経営にも才覚を発揮し、政界などともつながりを深め、大きな影響力を持ったことでも知られます。その激動の生涯をたどってみましょう。

聖火最終走者に異例の外国人抜擢

2018年7月、2年後の東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出を統合総括するエグゼクティブ・プロデューサーに狂言師の野村萬斎が就任した。野村のもと、オリンピックとパラリンピックの開閉会式をそれぞれ映画監督の山崎貴、クリエイティブディレクターの佐々木宏が演出することになる。

これ以前に日本でオリンピックが開催されたのは、1998年の長野冬季オリンピックまでさかのぼる。このとき、開閉会式の総合プロデューサーとして演出を手がけたのは、劇団四季の代表(当時)で演出家の浅利慶太(2018年7月13日没、85歳)だった。

浅利は開閉会式の概要を、オリンピック開催の1年前に早くも発表している。その内容は、地元・長野の諏訪大社の神事である「御柱立て」を再現したり、各国選手団を大相撲の力士たちがプラカードを持って先導したり、さらには聖火の点火後、5大陸を衛星中継で結び、世界的マエストロ小澤征爾の指揮でベートーベンの「第九」を世界各地の合唱団が一緒に歌うといったものだった。これに対しては、発表時より冷笑的な意見もあがった。

ほかのオリンピックでは、開閉会式の内容はたいがい開催まで秘密とされる。観客の期待を高めるうえでも、隠しておいたほうが効果的のはずだ。だが、それを浅利は、事前に明かしたのである。これについて彼は、オリンピック開催後のインタビューで次のように説明している。

《僕たちは、ショーを作る人間です。あらかじめ知っているものを観るというのが本当に楽しいということを知っています。いきなり観ると印象だけに終わってしまいますが、何か予備知識があった上で観ると、奥まで感じ取ることができます。知っているものを深く観せる楽しさ、良さは演出の重要な要素だと思います》『浅利慶太の四季 著述集 4』

それは演出家としての彼なりの美学であり、自負であったのだろう。長野オリンピックでの浅利演出には、先述のとおりプランの発表時から否定的な意見も少なくなかった。しかし、なかにはオリンピック史上、特筆すべき点も見出せる。聖火の最終ランナーに、イギリスの対人地雷禁止運動家で、自らも地雷除去作業中に右手足を失ったクリス・ムーンを起用したことはその一つだ。

通常、オリンピックの聖火最終走者には、開催国の若者か、あるいは過去の五輪メダリストが選ばれることが大半で(長野オリンピックでも最終点火者はフィギュアスケート選手の伊藤みどりが務めている)、外国人が抜擢されたのはまったくの異例であった。

浅利自身、オリンピック後の座談会で《最終走者として地雷禁止運動家、しかも外国人を走らせること自体難しい点がありました。まず、スポーツ関係者の間には、平和という世界的な視野で聖火走者の問題を取り扱うという視点が抜けていたものですから、いろいろな議論がありました。実はクリスさんに最終走者として走っていただくプランを固めていく過程は大変だったんです》と、その苦労を強調している(『This is 読売』1998年4月号)。

それでも彼が地雷禁止運動家の起用にこだわったのは、地雷だけでなく毒ガスや原爆など数多くの非人道的な兵器を生んだ20世紀に対する反省を、同世紀最後のオリンピックで世界中に訴えかけようと思ったからだ。

クリス・ムーンの起用にあたっては、当時の外務大臣・小渕恵三のイニシアチブもあって、日本政府が対人地雷全面禁止条約に署名したことも追い風となった。小渕はこのあと、オリンピックと同年の1998年に首相となり、浅利は同内閣の設けた教育改革国民会議で委員も務めている。

浅利はこれ以前より、佐藤栄作に始まり何人もの首相のブレーンを務めている。政界だけでなく官財界、ほかの文化分野にも築かれた人脈は、長野オリンピックの仕事でもおおいに活用された。一方で彼は、劇団四季で経営者としても手腕を発揮する。演劇人でありながら、幅広いフィールドで才覚を示すことができたのは、なぜなのか。その足跡を振り返ってみたい。

高校時代の恩人への“恩返し”

浅利慶太は1933年3月、東京に生まれた。父親の浅利鶴雄は、歌舞伎役者の二代目市川左団次の甥であり、また、歌舞伎などの伝統演劇に対し新劇と呼ばれる演劇運動に共鳴し、築地小劇場の創立にも参加している。のちには松竹に移ったが、役員になる一歩手前で退職し、戦時中には45歳にして俳優座に演技研究生として入るほど、芝居に没頭した。

ただ、父の芝居好きのおかげで、浅利は貧乏暮らしを余儀なくされた。そのため、父と演劇には恨みを持っていた。そんな彼を演劇にいざなったのは、戦後まもなくに舞台芸術学院に1期生として入った姉であったようだ。中学時代は野球に熱中していた彼は、舞台芸術学院の野球チームに助っ人として借り出され、演劇人の卵たちと交流するうちに、芝居への関心が芽生えたらしい。

1949年に慶應義塾高校に入学すると、担任の勧めもあり演劇部に入部。2年生のとき、早稲田高等学院との合同演劇発表会で、当初、主演を務める予定が、演出担当の日下武史に家庭の事情ができたため役割を交代する。このときの演出が、演劇部顧問で劇作家の加藤道夫に賞賛され、演出家を志す契機となった。なお、1年上級生だった日下はその後も浅利と行動をともにし、1953年の劇団四季の旗揚げ以来、中心的俳優となる。

高校時代の浅利については、後年の“政治的手腕”の片鱗をうかがわせるエピソードを、当時、東京の名教高校(現・東海大学付属浦安高校)の演劇部顧問だった内木文英が書き記している(『テアトロ』2011年6月号)。それは浅利が高校3年のときのこと。東京都の高校演劇コンクールに参加するつもりで練習していたのが、慶應高校が都内から横浜の日吉に移転してしまう。そこで浅利はほかの部員たちと内木のもとを訪ね、どうにか東京のコンクールに参加したいと直談判したのだ。

内木もまだ20代で、高校演劇の組織では「うるさい存在」だった。一人で熱っぽく話す浅利を意気に感じて、その日開かれた東京都高校演劇研究会の役員会に連れて行った。まず、内木が役員らに慶應高校の彼らの思いを伝えたあと、生徒たちが来ているのなら話を聞こうということになる。そこで浅利は堂々と自分たちの希望を述べた。この結果、一人の役員の提案で、慶應高校を内木の所属する山の手地区で引き受けることが決まる。

余談ながら、のちに全国高校演劇協議会の会長となった内木から、全国大会の開催費の工面に苦心していると聞いた浅利は、知り合いの政治家を介して国に働きかけている。

このとき、内木は高校演劇に対する国庫補助金として300万円を得るため要望書を出そうとしていたが、浅利は「300万ほしいときには3000万ほしいと、そのくらい書かなければ補助金は出ません」と笑いながら助言したという。

はたして、浅利の働きかけもあってか、要望書どおり3000万円の補助金が出ることが決まった。しかし、これを高校演劇だけが独占しては、ほかの高校の文化団体から総スカンを食いかねない。そこで内木は、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)のように、全国の高校文化団体の大会を夏に集中して開催するよう提案した。こうして1977年から始まったのが、全国高等学校総合文化祭である。

新劇界の大先輩が命名した「劇団四季」

再び劇団四季の結成前後に話を戻す。慶應大学に進学した浅利は、卒業後には前出の恩師・加藤道夫の在籍した文学座に行くと漠然と考えていた。しかし加藤からは、芥川比呂志と一緒に文学座をやめて新しい劇団をつくるので、君たちも外で劇団をつくって待っていてほしいと言われる。そこで浅利たちが旗揚げしたのが劇団四季だった。

劇団名は当初、イギリスの詩人T.H.エリオットの長編詩のタイトルからとって「荒地」とするつもりだった。だが、芥川比呂志に相談したところ、「劇団をずっと続けるつもりなら、40代になって『荒地』じゃさまにならないぞ」と言われてしまう。そこで芥川が提案したのが、パリの劇団「THEATRE DES QUATRE SAISONS」からとった「劇団四季」だった。《フランス語の四季には八百屋という意味もある。季節季節にフレッシュなものを出す。君たちも将来は、一年に四本ぐらい新鮮な舞台をつくるよう心懸けるんだな》と尊敬する大先輩から言われては、浅利たちも受け入れざるをえなかった(浅利慶太『時の光の中で』)。

それでも後年、浅利は「四季」という劇団名に特別な思い入れを抱くにいたったようだ。それは、なぜ欧米のミュージカルや翻訳劇をやるのかという批判的意見を受けて、《西欧化しきったつもりでも、日本人の感性はそう簡単には変わらない。それは日本の自然風土がもたらしてくれるものです。この日本の四季が大きく変わらないかぎり、変わらないと思います》と語っていることからもうかがえよう(『文藝春秋』1996年4月号)。

浅利は劇団結成当初から、父のこともあり、演劇人はどんなに苦しくても舞台だけで生活できなければならないと考えていた。しかしフランスの演劇を中心に上演しながら、四季は着実に観客を獲得していったものの、俳優の懐はなかなか潤わなかった。

何人かは俳優業のかたわら会社勤めで生計を立てており、給料日となればほかの劇団員がカネを無心に来た。浅利もまた、一時期、叔父の経営する製薬会社で秘書をしたり宣伝部の手伝いをしながら収入を得ていた。このころ、その会社がスポンサーについたアメリカ製のテレビ映画に、四季が吹き替えで参加したことがあった。これは、その映画が、カットが早すぎて日本語の字幕スーパーが乗りそうにないので、セリフを日本語に吹き替えようと浅利が提案したところ、行きがかり上引き受けることになった仕事だ。彼はセリフを訳すばかりでなく、自ら俳優たちと一緒に出演もした。

日本のテレビ界における洋画の吹き替えはこれが嚆矢という。四季にとっても、英語と日本語のブレス(息継ぎ)ポイントを合わせるとセリフがぴったりハマることを発見するなど、このときの体験はのちのミュージカルの訳詞などで役立つことになる。

劇場取締役を務めながら劇団経営を学ぶ

1958年、浅利は警察官職務執行法(警職法)の改正に反対する「若い日本の会」に参加、作家の石原慎太郎、評論家の江藤淳、詩人の谷川俊太郎や寺山修司など当時の新進気鋭の文学者たちと知り合う。1960年には石原・谷川・寺山および劇作家の矢代静一に書き下ろしの戯曲を依頼し、四季で上演した。興行的には大失敗だったものの、彼らとはその後も友情を深めた。寺山にとっては、これがのちに自ら劇団「天井桟敷」を結成し、前衛的な演劇活動を展開する布石となる。

1961年には、日本生命が東京・日比谷に日生劇場を設置するにあたり、石原慎太郎とともに取締役に就任した。日生劇場は1963年に開場すると、四季の常打ち劇場となる。浅利が劇団経営の大切さを思い知らされたのは、この取締役在任中である。何しろ経理部長や公認会計士に対しては、数字をあいまいにはできないので、とても勉強になったという。また、日生劇場で最初に手がけた大仕事である、ベルリン・ドイツオペラの日本公演にあたっては、厳しい契約交渉にあたり、口約束など通用しない契約書第一という「ユダヤ商法」を学んだ(『週刊東洋経済』2003年1月11日号)。

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近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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tipi012011 浅利慶太――「芸術の毒」と「政治」をつないだ手腕|近藤正高 @donkou | 9ヶ月前 replyretweetfavorite

shinji_itagaki 浅利慶太――「芸術の毒」と「政治」をつないだ手腕|近藤正高 @donkou | 9ヶ月前 replyretweetfavorite

taka4th 浅利慶太――「芸術の毒」と「政治」をつないだ手腕|近藤正高 @donkou | 9ヶ月前 replyretweetfavorite

takasan1701 今月の「一故人」は、劇団四季の産みの親、浅利慶太さんです。​ 浅利慶太――「芸術の毒」と「政治」をつないだ手腕|近藤正高| 9ヶ月前 replyretweetfavorite