「士農工商」とは、本来は「あらゆる人々」という意味だった
小学校のとき、先生から「江戸時代には士農工商という四つの身分があって、それぞれ厳しい上下関係になっている」と教わった。さらに先生は、次のように士農工商を詳しく説明してくれた。
「一番上の士は武士(侍)のことで、農工商を支配するんだ。農は農民(百姓)、工は職人、商は商人だよ。どうして農民が二番目に地位が高いかというとね、幕府や大名などの支配者が、お前たちは武士の次に偉いんだ、だからきちんと年貢を払うんだと、重税を課せられる彼らにプライドを持たせるためだったんだ。商人を一番下にしたのも、彼らは金持ちで贅沢しているけど、身分は一番下なんだよと農民たちを納得させるためだったんだ」
私の周囲には、同じような説明を先生から聞いた人は少なくない。
でもこの話、よく出来たウソなのだ。
じつは江戸時代、士農工商なんていう身分制度は存在しなかったのである。
ならば誰がこのつくり話を思いついたのか、ほとほと感心してしまう。
ただ、昔の教科書には、確かに士農工商という身分制度は明記されていた。
私が高校生だった三十五年前の教科書には、「幕藩体制を維持し強固にするためには、社会秩序を固定しておく必要があった。そのために士農工商の身分の別をたて、支配者としての武士の地位を高め、農工商とのあいだには厳格な差をつけた」(『詳説日本史』山川出版社 一九八三年)とあるし、一九九七年の山川出版社の教科書(『詳説日本史』)でも、「近世社会は身分の秩序を基礎に成り立っていた。武士は政治と軍事を独占し、(略)さまざまの特権を持つ支配身分で、(略)被支配身分としては、農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、手工業者である諸職人、商業をいとなむ商人を中心とした都市の家持町人の三つがおもなものとされた。こうした身分制度を士農工商とよんでいる」と記されている。
しかし三年後の二〇〇二年になると、文章の最後が「こうした身分制度を士農工商とよぶこともある」(『詳説日本史B』)となっている。
「よんでいる」(一九九七年)から「よぶこともある」(二〇〇二年)へと、断言するのをやめているのだ。
別の教科書(『日本史B』実教出版 二〇一八年)では「武士・百姓・職人・商人は士農工商(四民)といわれ、江戸時代では社会を構成する中心的な身分と考えられていた。 士は苗字・帯刀や切捨御免などの特権をもち、農工商に優越する身分であったが、農工商の順は必ずしも身分序列ではなかった。しかし、儒者などによってしだいに身分序列とみなす傾向が強まっていった」とあり、さらに注書きに「農工商の各身分は、厳密に固定されていたわけではなく、百姓が都市に出て商人になるように、相互間の身分変更は、ある程度可能であった。また、百姓や商人が武士にとりたてられた例や、御家人株の購入により商人が御家人の養子となった例のように、被支配者身分の者が武士になることも、少数ながらあった」と補足されている。
東京書籍の教科書(『新選日本史B』二〇一八年)では「江戸時代の社会では、武士と百姓、町人(商人と職人)が、それぞれの職能によって区分された身分を形づくった」とあるだけで、「士農工商」という言葉自体が教科書から消えてしまっているのである。
じつは士農工商という概念は古代中国のもので、四つの身分というより「あらゆる人々」を意味した。
なのに江戸時代に儒学者が、強引に日本の社会にあてはめ、それが誤った形で明治以降に伝わっていったのである。
正確には、江戸時代の身分には、支配者の武士と被支配者の百姓・町人という二つがあるだけで、百姓と町人については、村に住むのが百姓、町(主に城下町)に住むのが町人(職人と商人)というように居住区や職業別にすぎないのだ。
しかも驚くべきことに、身分間での移動もできたのである。
たとえば勝海舟の曽祖父は越後の農民だったが、お金持ちになって武士の権利を買っている。
作家の曲亭(滝沢)馬琴も、金で孫のために武士の株を購入した。
正確な地図をつくった伊能忠敬や新選組の近藤勇は、その功績で幕臣(武士)に取り立てられている。
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