女性ジャズ・シンガーのブロッサム・ディアリーが三十三歳の頃に録音したとても可愛いアルバムがある。その中で世界中のキュートを集めたようなルックスのブロッサムが『春の如く』という曲を歌っている。「この落ち着かない気持ちは春のような気分」という歌詞の通り、歌の間ずっと心が、春のような気分に支配されてしまう。
四月の最終日。その日は、バーの扉を開け放しておいても大丈夫なくらいの暖かい夜だった。私はブロッサムの歌う『春の如く』をかけ、ボトルを磨いていると常連の男性が来店した。
西山さんという三十五歳の独身で、フリーのライターの彼が、私のバーを取材に来たのをきっかけにして、一ヵ月に一度くらい通ってくれるようになった。髪は真ん中分けで耳にかかる程度、紺色のジャケットに白いTシャツと濃いインディゴのジーンズ、コンバースのシューズをいつもはいている。
西山さんは「こんばんは」と言うと、いつもの真ん中の席に座った。
「お飲み物は今日はどうされますか?」と聞くと、西山さんはこう話し始めた。
「実は今度、ブランデーの広告の記事を書くことになったのでマスターに教えてもらいたくて。だいたい、ブランデーって何なんですか?」
「ストレートな質問ですね。ブランデーとは果物の蒸留酒のことです。例えばブドウをお酒にするとワインができますよね。それをお鍋に入れて沸騰させるとアルコールが飛びます。その飛んだアルコールを集めて冷ましたのが蒸留酒、ブランデーですね。コニャック地方で作られたブドウのブランデーだとヘネシーやカミュが有名です。もちろんブドウ以外の果物のブランデーもありますよ」
「なるほど。じゃあコニャックは知っているので、他の果物のブランデーをいただけますか?」
「カルバドスというリンゴのブランデーなんてどうでしょうか」
「リンゴのブランデーですか。どういう飲み方がおすすめですか?」
「ブランデーはそのまま飲むのが普通ですが、カルバドスはソーダで割ってもおいしいですよ」
「じゃあそれをお願いします。ところでマスター、今かかっているの、ブロッサム・ディアリーですよね」
「よくご存じですね」
「昔、僕が住んでいた井の頭線の永福町の駅前にブロッサムという名前のパン屋があったんです。そのお店が名前の通り、ブロッサム・ディアリーしかかけていなくて」
「へえ、面白いですね。どういうお店なんですか?」
「バゲットとパン・オ・ショコラとアンパンだけしか焼いていないちょっとこだわりのパン屋でした。バゲットは外は口の中の上側が必ず切れるくらい固くて、中は柔らかくてしっとりとしていました。パン・オ・ショコラはエシレのバターとヴァローナのチョコレートがたっぷりと使われていて、小さいけど持つとずっしりとしました。寒い日に蜂蜜がたっぷり入ったホットラムとあわせると夢のようにおいしいんです。アンパンは十勝産のつぶアンがぎっちりと入っていて、春になったらアンパンの窪みのところに桜の花びらが埋め込まれたタイプのものが登場しました。
当時、一緒に住んでいた彼女がその桜の花びらがついたアンパンの大ファンで、毎年、春が近づくと『ブロッサムのアンパン、桜になったかなあ』って確認のために毎日通いつめていたんです」
「桜の花びらのアンパンですか。でもその三種類だけって思い切ってますね。小さいお店だったんですか?」
「小さかったですね。八坪くらいでしょうか。店の奥の方で五十代半ばくらいの神経質そうな男性が黙々とパンを焼いていて、レジのところに三十歳前後のいつも寂しそうな目をした女性が立っていました。
レジの後ろには茶色いレコード棚と小さなターンテーブルがあって、その女性がいつも丁寧にレコードをかけていて、そのレコードがすべてブロッサム・ディアリーだったんです。
彼女が『あの二人って夫婦なのかなあ』ってたまに言うことがあって、僕が『今度聞いてみればいいじゃない』ってそそのかすと、『そうなんだけど、違ったらと思うとなんか聞けなくて』ってつぶやいてました」
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