私はいま、ロサンゼルスでプラスサイズモデルや女優業をしています。インスタグラムのフォロワーは6万人以上います。
でも、日本にいるときはずっと、いわゆる「負け組」な人生を送ってきました。
学校になじめないストレスで体重が20キロ増加
私の負け組人生がはじまったのは、中学生のとき。ストレートな物言いしかできない私は、小学時代は天真爛漫な子として人気者でしたが、クリスチャンの私立の女子校に進学してからは、生意気だと言われ、いじめの格好の的になってしまいました。
その頃は標準より細めの体型。外見が目立っていたわけではなかったのですが、私が所属していたバレーボール部の女子が、私が6か月前に言った「何か」で泣き出して、バレーボール部の全員を敵に回してしまったり、他の部の女子からも意地悪をされたりと、ふんだりけったりな毎日でした。
そして、ついに我慢の限界がきて不登校に。どうしても学校に行く気が起きず、実際にはそこまで病んでいたわけではなかったのですが、心療内科に行ってドクターストップをかけてもらい、学校側に公式に不登校を認めてもらいました。
その間の暴飲暴食により、細かった体が20キロ近く増量。家族からはデブだと罵られ、特に父親からは、「お前が太っているのは、お前の人生がだらしなく計画性がないからだ。忍耐のないどうしようもない人間だ」と言われ、殴る蹴るの喧嘩もしょっちゅうでした。ただ、父はそこまで体の大きい人ではなかったので、体重が増えて体が大きくなった私との取っ組み合いは、まるで相撲の取り組みのようでした。
いまでは父がそこまでして私を痩せさせようとした気持ちもわかります。日本で女として生まれたら、容姿で得すること、損することのギャップが大きすぎるのです。
父は私の容姿が不自由なことで、私が仕事で損をしたり、まともに結婚できなかったらどうしよう、という不安があったのでしょう。
また、細かったときの私がそこそこ可愛かった、というのも、父が私を痩せさせようとやっきになっていた理由の1つだったかもしれません。なんと私、ハロプロのオーディションを受けて書類審査に通ったことがあるのです(二次面接は父親がビビってしまい、止められて行けませんでした。いまでも、つんくさんにプロデュースされるという夢は捨てていません)。
両親は美人の娘に成長してくれるものだと期待していたのだと思います。
不登校とはいえ、家でずっとダラダラしていたわけではありません。ずっとやりたかったお芝居をするために地元の劇団に入りました。それが私と演劇との出会いでした。滑舌の練習として有名な「外郎売」を毎日家で大きな声で音読し、学校にはたまに行く、というような日々を送っていました。
毎日役者として生きていた大学時代
高校は公立の共学に進学しました。そこではなぎなたに打ち込み、インターハイや国体に出場。スポーツ選手として結果は残しましたが、太い足、デカイ尻は変わらずでした。
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