三月、まだ冷たい風が吹く夜、満開の梅の香りが辺りに漂っている。
少しだけ春を感じるこんな夜には薄命の美人の歌声が聞きたくなった。
ビヴァリー・ケニーという美しい女性ジャズ・シンガーがいる。彼女はレコードを六枚だけ残し、二十八歳という輝く年齢で亡くなった。どうやら自殺というのが亡くなった理由らしい。
彼女が『イッツ・マジック』という曲を歌っている。
「二人、手を取り合って歩く時、世界は不思議の国になる。それは魔法。本当のことがわかったの。これは私の心の中のこと。魔法はあなたへの愛」
たしかに恋してしまうと、相手との運命の出会いや、心がわかりあえることなどすべてが魔法のように感じてしまうことがある。そして誰かが誰かに恋をする気持ちもまるで仕掛けのない魔法のようだ。
その曲が入ったビヴァリー・ケニーのアルバムをターンテーブルの上に置いているとバーの扉が開き、二十代後半くらいの女性が入ってきた。
顎のラインまでのボブ、少し謎めいた雰囲気があり、白いカシミヤのセーターがひろう身体の曲線が魅力的だ。
「どうぞお好きな席へ」と告げると、彼女は「じゃあここにしようかな」と耳に心地よい声で言いながらカウンターの真ん中に座った。
「お飲み物はどうされますか?」と問う私に彼女は少し考えて答えた。
「いつもこういうバーに来ると何か新しいお酒を飲んでみたいなと思うのですが、どう注文すれば良いですか?」
「そうですね。バーの棚には世界中で作られたお酒のボトルが並んでいます。
どのお酒も何十年何百年もの歴史があり、味はもちろん、ボトルやラベルのデザインも試行錯誤を繰り返し、いろんな物語を抱えて私のバーの棚に届いています。
お客様がそんなボトルを指さして、『そのお酒は何ですか?』とバーテンダーに質問するのが一番よろしいと思います。
世界中のデザイナーが、お客様に指さされるのを想定しながら、このボトルやラベルを生み出したわけですので、彼らも喜ぶのではないでしょうか」
「そう言われてみればそうですね。このたくさんのボトル、全部、誰かがいろんな会議を重ねて試飲を重ねて作ってるんですよね。じゃあ、私はあの背の高い黄色いボトルが気になります。あれは何のお酒ですか?」
「これはスーズというリキュールです。私たちバーテンダーの間ではフランスの黄色いカンパリと呼んでいます」
「カンパリは知っています。そちらにある赤いボトルですよね。ちょっと苦いお酒」
「はい。カンパリはリンドウの根を使ったリキュールですが、このスーズも同じくリンドウの根を使ったリキュールなんです。カンパリの方が営業努力の賜物で世界的に有名ですが、このスーズも実は歴史に彩られたリキュールなんです」
「スーズの歴史、気になります」
「スーズが生まれたのは一八八九年でした。スーズ社はパリの画壇の後援活動をして知名度を上げ、二十世紀初頭のベルエポック時代には『スーズはパリのエスプリの薫り』とまで言われるほど浸透し、あのピカソも愛飲しました。
しかし第二次世界大戦後、フランスではスコッチ・ウイスキーを飲む人が増え始めます」
「フランスと言えばワインなのにスコッチですか」
「はい。フランスでは食事中にはワインを、食前や食後にはフランス産のリキュールを飲むのが一般的でしたが、戦後はそれが古くさく感じられてきたのでしょう。例えばサガンの小説にもお洒落にスコッチ・ウイスキーを飲む女性が出てきます。
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