「享徳の乱」で関東は戦国時代に突入
「戦国時代に突入するきっかけは、応仁の乱である」。
その常識がいま崩れようとしている。
日本史の教科書のなかには、こんな記述が登場してきているのだ。
「足利持氏(もちうじ)の子・成氏(しげうじ)が鎌倉公方となったが、成氏も上杉氏と対立し、1454(享徳3)年に成氏が上杉憲忠(のりただ)を謀殺したことを発端として享徳の乱がおこった。これ以後、関東は戦国の世に突入した」(『詳説日本史B』山川出版社 二〇一八年)
「享徳の乱? そんな戦い、聞いたこともないよ」
そう思った方も少なくないはず。
応仁の乱は一四六七年だから、関東地方はそれより十年以上も前に下剋上の世に突入していたというのが、最近の研究結果が反映された教科書の記述なのだ。
おそらく今後は、享徳の乱について触れた教科書が増えていくはずだ。
そこで、ほとんど知られていないこの乱の概要を知って、周囲の人に自慢しよう。
まず紹介した教科書に登場する「足利持氏、足利成氏、鎌倉公方、上杉憲忠」といった 人名や用語から説明しよう。
足利尊氏は京都に政権(室町幕府)を置いた。
ただ、それまで百五十年以上、鎌倉に政権があったので、尊氏はその地に鎌倉府を置いて室町幕府の出先機関とし、関東地方を支配させた。
その長官を鎌倉公方といい、尊氏の三男基氏の家系が代々、公方に就任した。
そんな鎌倉公方を補佐するのが関東管領(かんれい)であり、これも代々、上杉氏が継承した。
やがて鎌倉府の権限は拡大し、関東のみならず東北地方まで管轄するようになり、京都の室町幕府と対立するようになった。
とくに鎌倉公方足利持氏は幕府に反抗的な態度をとった。
そこで関東管領の上杉憲実(のりざね)がその態度を諫めると、怒った持氏は憲実を攻め滅ぼそうとした。憲実が幕府に救援をもとめたところ、これを好機と考えた六代将軍足利義教(よしのり)が大軍を派遣、敗れた持氏は自害に追い込まれたのである(永享の乱)。
こうして鎌倉府は滅亡したが、持氏の子・成氏は鎌倉から逃れ、その後、関東の諸将の要請もあって幕府との和解が成立、一四四七年、成氏は鎌倉に戻って公方となり、鎌倉府が復活したのだ。
このときの関東管領は上杉憲実の子・憲忠であった。
だが、永享の乱以後、成氏派の武士と上杉氏の家臣団との関係は悪く、一四五〇年には憲忠の重臣や上杉派の武士たちが成氏の御所へ攻め寄せる事件がおこった。
幸い事前に企てを知った成氏は、江ノ島に避難して無事であった。この騒動は幕府が仲介に入り、上杉方が謝罪して一応終息したが、その後も両派の確執が続いた。
そして一四五四年、「急な用事があるので、すぐに来てほしい」と足利成氏は、上杉憲忠を自分の屋敷に呼び出したのだ。
どうおびき寄せたのか不明だが、憲忠は疑うことなくわずか二十二人の供を連れただけで、のこのこ成氏のもとへ出向いてしまう。
ちょうど、 憲忠の重臣・長尾景仲(ながお かげなか)は、相模国長尾(神奈川県横浜市)に出向いて不在だった。おそらく成氏方はその隙をついたのであろう。
やって来た憲忠は、結城成朝(しげとも)、武田信長、里見義実(よしざね)といった成氏方三百騎の襲撃を受け、あっけなく成朝の家来・金子兄弟に討たれ首をもがれてしまった。まだ、二十二歳だった。 同時刻、憲忠の屋敷にも成氏方の岩松持国の軍勢が押し寄せ、多数の上杉家臣が討ち取られた。
これが享徳の乱のはじまりである。
事態を知った景仲は、すぐに長尾から鎌倉へと取って返し、憲忠の妻子を実父の上杉持朝(もちとも)の屋敷に避難させたあと、上野国(群馬県)へ走って兵を募るとともに、越後国(新潟県)守護で上杉一族の房定(ふささだ)に応援を求めた。
憎き上杉憲忠を屠(ほふ)った足利持氏は、翌年の正月早々、鎌倉を発って上杉氏の拠点である上野国を目指して北上していった。
これを知ると、長尾景仲も上野国から兵を率いて武蔵国(東京都ほか)へと南下した。
そして成氏の 拠(よ)る高安寺に攻めかかったのである。
武蔵 国分倍河原、高幡において両軍の激戦が展開され、一進一退の攻防が繰り返された。
が、やがて成氏方の結城成朝軍の奮戦によって上杉軍が劣勢に陥り、上杉憲顕(のりあき)、上杉顕房(あきふさ)ら上杉一族が敗死、ついに上杉軍の敗走が始まった。
逃げる同軍を追って足利軍は常陸国(茨城県)まで到達、景仲らが籠もる小栗城を包囲したのである。
同城は非常に頑強であったが、成氏みずからが城攻めに加わり、同年五月、ついに小栗城を陥落させた。このおり、長尾景仲は下野国へ逃走した。
この成氏の関東を乱すような軍事行動に対し、室町幕府は追討軍の派遣を決定。
長尾景仲の依頼に従い、京都にいる憲忠の弟・房顕(ふさあき)を関東管領に任じ、追討軍の総大将に任じた。
房顕は同年四月、上野国平井城に入った。さらに同月、駿河国(静岡県)守護の今川範忠(のりただ)ら幕府軍が京都を出立、六月には鎌倉へ侵攻し、成氏方の軍勢を撃破して成氏の居所を焼きはらった。
この動きに元気づいた景仲ら上杉軍は、越後から援軍に来た上杉房定らと合流、にわかに勢力を回復させた。
さらに十一月には、後花園天皇が正式に成氏追討の綸旨(りんじ)を発した。
これにより、鎌倉公方・足利成氏は朝敵となってしまった。
だが鎌倉公方に心寄せる関東武士は多くおり、成氏は下総国古河(茨城県)に御所を定め、古河公方を名乗ってその後も上杉勢力と戦い続けた。
そこで室町幕府の八代将軍足利義政は、一四五七年に異母兄である足利政知を還俗させ、翌年、正式に鎌倉公方として派遣したのである。
しかし、成氏派の勢力が強く、政知は鎌倉へ入ることができず、伊豆の堀越を拠点とした。
こうして鎌倉公方は成氏の古河公方と政知の堀越公方に分裂、さらに関東管領上杉一族も山内上杉と扇谷(おうぎがやつ)上杉に分かれ、それぞれが離合を繰り返しながら抗争するようになり、関東は戦国時代に突入したのである。
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