「武田鉄矢を受け入れるというのが日本人の国民性だとするなら」
「こんにちは、ライターの武田砂鉄です!」という書き出しをしないのは、そうやって始まる記事を読んで面白いと感じたことが一度もないからだが、もしかしたら面白い記事もあるのかもしれないし、その書き出しを理由に面白くないと即断している可能性も高い。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」のように、物語にすぐさま招き入れる書き出しもあるが、個人的に惹かれる書き出しとは、「『上をむいてあるこう、涙がこぼれないように。』という流行歌には、巷に自動車がハンランし、道路工事で方々に穴ぼこのあいてる当節、さっさと人生から足を洗ってしまえとアジってるみたいです」(花田清輝「犬もあるけば」『映画芸術』1964年9月号)のような、強烈な皮肉を早速注いでくるようなもの。
この度、まったく光栄なことにナンシー関のベスト選集の編者を務めることになり(『ナンシー関の耳大全77』朝日文庫)、「週刊朝日」に連載していた450本分の原稿を読み返して改めてうっとりしたのは、冒頭からトップスピードで相手に向かう強度。具体例をあげれば、武田鉄矢について「武田鉄矢が人気者であると思うたび、私は日本という国が嫌になる。武田鉄矢を受け入れるというのが日本人の国民性だとするなら、私は日本人をやめたいと思う」と畳み掛ける書き出し。武田鉄矢の名前を出して、私は日本人をやめたいと思う、に至るまでのスピード感は、そもそも武田鉄矢と日本を対比させる必要があるのかと考える時間すら与えない。こうして芸能人について毎週書いていると、ナンシー関のエピゴーネンなどと野次られることもあるが、そもそもこちらとしては「ナンシー関を尊敬してやまないからこそ、エピゴーネンと呼ばれることすらはばかられる」(拙著『芸能人寛容論』あとがきより)と記した通り。その思いを新たにする。
ナンシー関の言葉を改竄するな
ナンシー関史上、もっとも直情的な書き出しは「私は中山秀征が嫌いである」だと思う。「(芸能界内の)しがらみ・関係性・その他の諸事情」が生み出す和気あいあいの象徴的存在として、中山秀征を「なまぬるバラエティーの申し子」と名付けた。しかし、昨年、インタビューで「ナンシーさんには『ゆるいバラエティー番組を作った男』とか、毎週のようにボロクソ書かれていました」(ORICON NEWS・2017年8月11日)と答えている中山秀征を見つけて怒り心頭。「なまぬる」→「ゆるい」と改竄、「申し子」→「作った男」と改竄、それは今っぽい言葉で言えば「アップデート」とでも言えるのかもしれないが、他人の言葉を更新してはいけない。文庫解説に長々と記したが、故人の言葉をアップデートして、「作った男」などとかつての立ち位置を良さげに捏造する様は、まさしくナンシー関が指摘していた、芸能界内の和気あいあいで生き長らえてきた姿勢が持続していることを教えてくれる。
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