木下拓海という男
アフガニスタン取材から2年後の2004年2月、突然珍しい人間から電話がかかってきた。着信画面には「木下」と出た。まさかアイツか?
木下 なーかーがーわーさーん、お元気ですかー!
私 あぁ、元気だよ! 久しぶりだなぁ! どうしたんだ!
木下 いやぁ、2年前に電通クビになっちゃったんですよ!
私 聞いてたよ、バカヤロー! で、どうしたんだよ?
木下 仕事下さい! ついにカネがなくなりました!
私 よし、いいぞ! ちょっと待ってて、オレもお前に仕事出したいし、嶋さんという人も紹介するから。もう一度電話する。
そこで当時博報堂で雑誌「広告」編集長だった嶋浩一郎さんに「とんでもなくおかしいヤツが仕事をしたがっているので、会ってもらえませんか?」と伝えたところ、早速、翌日の土曜日昼に下北沢のカフェで木下拓海と会うことになった。
会ってすぐに嶋さんは木下のことを気に入り、「広告」の次の特集のライターとして雇うことを決定した。また、私も当時は雑誌「テレビブロス」のフリーの編集者として毎回仕事をさせてもらっていたため、ブロスの仕事も回すことにした。嶋さんも私も人手が欲しい時期だったのである。
とにかく木下はおかしな男として私の記憶に残っていた。実際、件の電話を受けるまで、彼に会ったことは2回しかない。しかも、会ったのは2000年3月なので、約4年ぶりの連絡だった。それなのにこの男のことは相当印象に残っていたのだ。
出会いは2000年3月、私の博報堂3年目が間もなく終わろうとしている頃だった。当時、若手社員がOB訪問の学生に会うよう人事からは命令されていた。これはいわゆる採用の「青田買い」で、東大や早慶上智、一橋、京大、東工大といった大学出身の若手社員がこれらの大学に在籍する学生に会い、一次審査をしていたのである。別の大学の学生がたまたま私の会社の電話番号を知り、OB訪問の依頼をしたとしても、それは受けることになっていた。
私は「一橋チーム」として大体70人の学生とその年は会ったが、木下がもっとも印象に残る学生だった。評価については、文句なしに良ければAをつけ、良ければB、まあまあだったらC、ひどかったらDをつけるということになっていた。これを、一橋のOB社員がデータベースで共有するのである。目安としては「B」が2人以上からつけば人事面接に上がることになっていた。その人事面接を2回クリアしたところで最終の役員面接となるのだ。私の場合はBをつけた人数は70人中15人程度だった。Aは1人だった。
恐らく一橋からは250~300人ほどが受けるが、内定を取るのは3~5人である。他大よりは随分と入りやすいものの、それでもなかなか内定を取るのは難しい。
当時学生だった木下からもOB訪問させてほしいという連絡があったのだが、会う前にDBの評価を見てみたらDが4つ、Bが1つついていた。まぁ、ひどい評価である。D判定をしたOBのコメントを見てみると「とにかく下品」「ウチのカラーではない」など辛辣な言葉だらけだった。唯一Bをつけていた、大学時代からの友人・健太郎は、「うさんくさい。あまりにもうさんくさくてそこが面白い」と書いていた。
会ったその場で「良い」評価
OB訪問当日、どんなヤツなんだろう、と思いながら待ち合わせの場所にいると、遠くの方から走ってくるスーツの男がいた。色が黒くてかなり濃い顔をしたヤツだった。
「なーかーがーわーさーん、今日はありがとうございます!!」