以前、「挨拶なんてどうでもいいと思っている」ということついて書いたことがあった。その際に、私は家庭内で「おはよう」「おやすみ」などの挨拶を一切していないことも書いた。
先日、この連載の担当編集さんに会った時、こんなことを訊かれた。
「息子さんには挨拶を教えるんですか? やっぱり息子さんにも『おはよう』とは言っていない感じですか?」
意識したことがなかったから気が付いていなかったのだけれど、訊かれたことによって自覚した。そういえば、息子には「おはよう」と言っている。息子を起こす時は「おはよう赤ちゃん」と声を掛けているし、息子が先に起きて私のことを起こしてきた時には「おはようするの?」と訊いている。
それで「いや、息子には『おはよう』と言ってますね、結構、すごく言っています」と答えたのだけど、コレって息子に礼儀作法としての挨拶を教えている感じなのだろうか?と考えてみると、そうではないような気がしてきて、では、どんな時にどんなつもりで「おはよう」って言っていたっけと思い出してみると、いくつかの意味があることに気が付いた。
私が息子にだけは「おはよう」と言う理由
私が息子に向かって「おはよう」と言う時、まず一つ目の目的としては、”起きる”という概念を教えるためにそれを言っている。
起きて活動が始まる時の雰囲気作りの一環として「おはよう」という言葉も利用している。おはようしようね、おはようしてみようか、おはようしたいの?という風に。「起きる時間よ」とか「そろそろ起きてよー」とか「もう起きたいの?」よりも、キャッチーで可愛くて耳馴染みがいい感じがするから、”眠りからさめて活動を始める”という行動を指す言葉として、そのキッカケづくりや、親子の間の共通言語づくりのために、毎日息子が起きる時に『おはよう』と声を掛けている。挨拶をしている、という意識ではない。
それから「おはようバージョンの赤ちゃんだね」みたいな感覚もある。たっぷり寝て起きた時の赤ちゃんは、顔がむくんでいて、ボーッとしていて、動きが鈍くて、通常バージョンの赤ちゃんとは少し違う。そんな息子を目の当たりすると「あら、可愛い”おはよう赤ちゃん”だ!」という言葉が自然と出てくる。「朝定食」とか「朝マック」みたいなのと同じ感じ。
子どもの頃によく食べていた冷凍食品に「おはようポテト」という商品名のハッシュドポテトがあったのだけど、そのノリというか、朝を感じる、朝特有の、一目見て「ああ朝だね」って感じさせてくるその存在感に対して「(あら、今日も見事な)おはよう赤ちゃんだね」と言っている。
英語は「ハロー」から覚えるのと一緒
それから、言葉を覚えていくにあたって入り口としてちょうどいいとも思っている。日本人が英語の勉強をする時に「ハロー」から入るのと同じ感じで「おはよう」とかそういうのは、言うタイミングなど含めて分かりやすいから覚えやすい言葉だろうな、と思う。
息子にどんどん日本語を覚えてもらうためにも、言葉を覚えた気になって得意げな気分になる機会を多めに作ることは大切なことだと考えているのだけど、その点において挨拶系ワードは便利そう。そういう狙いもあって、息子に対してはよく挨拶をしている。
それに、挨拶はその他の会話と比べると難易度がとても低いから、初心者でもマスターしやすいはずで、挨拶系ワードを教えることによっていち早く赤ちゃんと通じ合える手段が手に入りそうなところもいい。
これは犬に「お手」を教えたり、インコに言葉を覚えさせるのと同じことで、育てている者として、そういうことをしてもらえると萌えるからやってほしい、という意欲。
最近息子はハイタッチと拍手と握手を覚えたため、私が「ハイタッチ!イエイ!」と言いながら手の平を見せると自分の手を当ててきてくれたり、拍手をして見せながら「パチパチは?」と言うと一緒に拍手をしてくれたり、「握手してください!」と言いながら手を差し出すと握ってくれたりするのだけど、やりとりができる、通じ合える、というのは、とても満足度が高いことなんだなぁと実感する。ただただ一方的にお世話をしている時も可愛くて楽しかったけれど、共通言語を持てるようになって通じ合えるようになると、ますます楽しい。
そう考えた時に、いきなり込み入った会話はできないだろうから、ひとまずは挨拶系ワードを教えておこう、となる。早く萌えたい。私は英語を、誰からどんな環境で習っても全然覚えることができなくて未だに話せないのだけど、それでも「ハロー」と「グンナイ」と「サンキュー」と「ソーリー」くらいは覚えられたし使うタイミングも分かるから、挨拶って覚えやすい。
挨拶なんてどうでもいいことだとは思っているけれど、「早く言葉のキャッチボールができるようになりたいなぁ、できたら絶対楽しいよなぁ」という私利私欲のために、私は毎日息子に向かって挨拶をしている。
大人に可愛がられるための「安全対策」
とはいえ、息子自身の人生のことを考えても、ひとまず挨拶はできるようになった方がいいとも思っている。最終的には「挨拶なんてできてもできなくてもどっちでも大丈夫、個人の趣味でお好きな方を」と思うのだけれど、ひとまず幼いうちは、大人に好かれるために挨拶をフル活用した方がいい。愛くるしい顔立ちをした赤ちゃんが挨拶をする姿というのは可愛いから、たいていの大人が喜ぶ。
というのも、子どもは弱いから。
まだ大人じゃない、というのは、それだけですごくすごく弱い。どんなにバカな大人でも、子どもよりは基本的に強くて、どんなに賢い子どもでも大人と戦って勝てる可能性はほとんどない。
そう考えると、子どもというのは大人から嫌われることがすごくリスクになる。とにかく大人から可愛がられるように生きることが安全対策になる。
親はずっとそばにいてあげられるわけではなく、保育園なり幼稚園なりに通うようになった時点で、赤ちゃんは親の目の届かないところで不特定多数の大人と接することになる。
そうなった時、幼い子どもにとって、大人から嫌われる、というのは凄く危険なことだ。だから私は息子のことを大人から可愛がられるタイプの子どもにひとまずは育てたい。
そしてそれはとても簡単なことで、ニコニコして基本的な挨拶ができているだけで、多くの大人が「愛嬌があって可愛い子」という評価をする。
学校の先生から贔屓されてほしい
私自身、子どもの頃は、評判のいい子どもだった。しっかり挨拶をしていたから。
私はいつもニコニコの笑顔で声を張って挨拶をしながら「こういう風にやっておけば、大人は可愛がってくれるんでしょ。チョロい」と思っていた。息子にも、ぜひ挨拶をすることで身を守ってほしい。心の中で大人を小馬鹿にすることは全く問題じゃない。
全ての子どもは、無事に成人することが何よりも大切なミッションだと思う。いつだって安全が第一。
だから私は息子のことを「何このクソガキ」と思われないタイプの子どもに育てたい。息子はこれから大人になるまでの間に、学校の先生をはじめとして、街の人や近所の人、同級生の親など、私の目が届かないところで、多くの大人と接していくはずだ。そんな中で、万が一にもひどい目に遭わされるようなことがないように、賢く立ち振る舞ってほしい。
それに、学校生活においては、一人の先生が数十人の子どもを見ているから、目立たない子どもは見落とされがちになる。それは時と場合によっては、命に関わる危険要素となる。
贔屓されるくらい好かれるようにしておくことは、安全対策の一つになると思う。先生が人間である以上、贔屓は必ずある。
息子は私にとっての恩人だから
ちなみに、以前の記事で、私が旦那さんには「ありがとう」を言わないことについても書いたことがあったけれど、息子に対しては「ありがとう」も頻繁に言っている。
なぜなら、旦那さんと違って、息子とは対等じゃないから。息子の方が偉い存在だから。息子は私の「母親になりたい」「子育てがしたい」「自分の子どもに会ってみたい」という願いを叶えてくれた人で、私にとって恩人で、感謝をしてもしきれない相手だ。
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