「たとえる」と、文章にオリジナリティが生まれる
次のような一文があったとしよう。
燃えるような赤いもみじ
今まで何度も耳にした、使い古された表現である。
何の抵抗もなくこの表現を使う人は少なくない。長年使われているということは市民権を得ている表現といえるし、「燃えるような」と言われれば私たちは条件反射的に赤いもみじが頭に浮かぶようになっている。
ただ、このフレーズを使いたくない人もいるはずだ。それは、使うのが恥ずかしいと感じる人だ。
そこで自分の言葉でもみじをたとえる。
広島カープのファンで埋め尽くされた球場のような赤いもみじ
スペインのトマト祭りの後のような赤いもみじ
進研ゼミから返ってきた答案のような赤いもみじ
アントニオ猪木のタオルのような赤いもみじ
テツandトモのテツが着ているジャージのような赤いもみじ
寝不足の目のような赤いもみじ
シャア専用のような赤いもみじ
赤が強すぎたアタック25のパネルのように赤いもみじ
これにより良くも悪くも新しいもみじが少なくとも8つ誕生した。どれもオリジナリティに富んでいて、それぞれが別の赤を想起させる。赤ヘルのような赤、街中がトマトで染められたような赤、赤ペン先生のアドバイスが書き込まれた答案のような赤。それは「燃えるような」とたとえられた時の色とは違う。
さらにこのオリジナリティは確実に聞き手の記憶に残る。最悪「この人は何を言っているんだ?」と思われたとしても、それはそれで印象に残るということだ。
また、次のような流れになることもある。
「アントニオ猪木のタオルのような赤いもみじでしたよ」
「私が見たのは、こども店長のスーツのような赤いもみじでした」
こちらのたとえが相手の表現欲を刺激し、相手のたとえを引き出す。たとえの連鎖が生じ、新たなオリジナリティを生み出すのだ。
もうひとつ別の例を挙げてみよう。
音楽のライブにて。
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