永井豪・登場の衝撃 ~デビルマンとマジンガーZ ①~

2010年代に入ってウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」等が次々と40、50周年を迎えている。これらは単に昔のものとしてあるだけでなく現役のコンテンツとして新作が発表され、映像化、舞台化されている。逆算すれば分かるが、大半は1970年代に始まった。1960年に生まれ、アニメ、特撮ものを最初期からTVで見ていた中川右介(作家、編集者)が「リアルタイムの記憶を基にして目撃譚」として描くサブカル勃興史。

記憶を辿りながら書きますが公にするからには、記憶にだけ頼り、間違ったことを書いてはいかないので、改めて調べ事実確認をして書きます。歴史家的視点と当時の少年視聴者・読者としての記憶とを融合させ「読者・視聴者としてサブカル勃興期を体験した者が書く歴史」を提示したいと思います(筆者)。

それまで「少年サンデー」(小学館)、「少年マガジン」(講談社)、「少年キング」(少年画報社)の3誌しかなかった、少年漫画週刊誌の世界に、集英社が参入して「少年ジャンプ」を創刊したのは、ちょうど半世紀前の1968年夏のことだった。

「少年ジャンプ」創刊にあたっては、当時の大家や人気漫画家たちから連載を断わられ、やむなく新人を起用していったことはよく知られた歴史的事実である。 創刊号から載った新人のひとりが永井豪で、『ハレンチ学園』が掲載されている。しかし、最初から連載だったのではなく、この時は「読切」としてであり、その後3回にわたって読切で掲載、「準連載」的になったところで、1969年の1号(68年12月発売)から連載として始まった。この号からは本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』も始まり、この2作が初期の「少年ジャンプ」の大ヒット作となる。

当時は、ただでさえ「漫画は子供たちに有害だ」という世論が教育関係者の間でも根強かったところに、教員を徹底的にからかい、どうしようもない人間として描いた『ハレンチ学園』は、そんな教員たちの逆鱗に触れた。編集部には抗議の電話や手紙が殺到、「読ませてはいけないマンガ」としてPTAが糾弾した。PTAとはなんと暇な人の集まりなのだろう。 表向きの理由は『ハレンチ学園』は小学生たちが主人公なのだが、女の子のハダカのシーンがあったり、男子がスカートまくりをしたりしているからとされているが、いまみれば、それがこじつけであることは分かる。学校と教員の本性を暴いてからかったのが、気に入らなかったのだ。

●永井豪の大ブレイク

『ハレンチ学園』は永井豪の出世作であって、デビュー作ではない。 永井豪は敗戦の年、1945年に生まれた。戦後○年がそのまま年齢となる。高校を卒業すると大学受験のための予備校に通っていたが、漫画家を志すようになり、受験は断念。一年半ほど、漫画を描いては出版社に持ち込んでいたという。手塚治虫と石ノ森章太郎が好きで、彼らのようにSFを描きたかった。 偶然が重なり、1965年春から石ノ森章太郎(当時は「石森章太郎」)のアシスタントになり、1年半ほど働いている。

商業誌デビューは、講談社の月刊誌「ぼくら」1967年11月号に掲載された時代劇ギャグ漫画『目明しポリ吉』だ。これは読切で、次号から初の連載が始まった。 アニメ制作会社ビープロが『ちびっこ怪獣ヤダモン』を制作することになり、放映開始にあたり「ぼくら」にコミカライズを載せようと漫画家を探していたところ、石ノ森章太郎のもとにいた永井豪はどうかとなって、12月号から『ちびっこ怪獣ヤダモン』の連載も始まり、68年7月号まで続いている。

1968年になると「少年マガジン」にも『じん太郎三度笠』や『荒野の剣マン』を短期連載するようになっていた。 そして69年に『ハレンチ学園』が大ヒットした。この漫画への批判の声が高まれば高まるほど、「不買運動」が盛り上がれば盛り上がるほと、そんなに面白いのかと少年たちは気になり、「少年ジャンプ」は売れ行きを伸ばしていった。

集英社のジャンプコミックスで単行本の第1巻と第2巻が出たのは、奥付の発行日では1969年11月30日。発売は1か月前だったと思われる。連載開始から約1年が過ぎた頃だ。映画第一作は1970年5月に封切り、テレビドラマは70年10月に放映開始となる。 僕は「少年ジャンプ」は買っていなかったので、『ハレンチ学園』を最初に読んだのは、クラスメートから借りた単行本だった。またたくまにクラスじゅうの男子が読み、順番待ちだったのは覚えている。マンガに女の子のヌードが出てくるなど、たしかに初めてであった。 69年4月から『巨人の星』のアニメも始まってスポ根ブームもあり、『ゲゲゲの鬼太郎』もアニメ化されて妖怪ブームもあったが、『ハレンチ学園』もブームと言ってよかった。小学生男子は忙しかった。

ヒット作を生んだ作家には他誌からの執筆依頼も殺到する。「少年ジャンプ」は新人をデビューさせるにあたり専属契約を結ぶことで有名で、その最初は本宮ひろ志とされている。しかし永井豪は、講談社の「ぼくら」や「少年マガジン」ですでに連載もしていたので、専属契約は結ばなかった。デビュー時からダイナミック・プロを作っており量産可能な体制になっていた。 『ハレンチ学園』の本格連載開始の翌月、1969年2月からは「少年マガジン」で『キッカイくん』が始まり、これが70年10月まで続く。 69年7月に創刊された「少年チャンピオン」にも8月から『あばしり一家』(73年4月まで)、70年7月からは「少年サンデー」に『まろ』(71年6月まで)と、70年の時点で少年週刊誌4誌に連載し、さらに月刊誌にもいくつも連載するようになっていた。

いずれも、女の子のハダカが出てくる、ストーリーのあるギャグ漫画という、ある意味では永井豪が生み出した新しいジャンルだった。一話完結がほとんどだが、『ハレンチ学園』では物語のなかで主人公の少年少女たちは成長していくので、ストーリー性もあったのだ。

●未完の『魔王ダンテ』

永井豪はエッチ系ギャグ漫画の専門と思われていたが、『キッカイくん』連載中の「少年マガジン」の1970年1月に100ページの読切で『鬼』を描いた。これが永井豪最初のストーリーマンガとなる。 これでエッチ系ギャグだけではないことをアピールすると、その年の暮れに「ぼくらマガジン」からストーリー漫画の連載依頼があった。

永井豪はもともと手塚治虫や石ノ森章太郎の作品が好きで、SF志向が強かったが、雑誌に売り込む際には「掲載されやすいものを」ということでギャグ漫画を描いていた。ギャグの才能もあったので人気が出たが、本人としては、本当に描きたいものではなかったようだ。

70年2月から9月までの「ぼくらマガジン」には『ガクエン退屈男』を連載していた。これもギャグ漫画ではあるのだが、途中からアクションものに転じ、ストーリー漫画色を強くしていた。永井豪のなかでストーリー漫画への志向が強くなっていることを見抜いた編集部は、人気作家の連載を取るには「描きたいものを描いてくれ」と頼むのがいちばん効果的だと知っていたのだろう。 好きなように描かせた結果、ひとりよがりの作品となって人気が出ないケースもあったが、一方で大化けする可能性も秘めていた。

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すべては1970年代にはじまった

中川右介 /角川新書

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