アラサー男子3人の不幸比べに興味ありません? 水城せとな最新作紹介
「どんな幸せな環境に生きる人にもそれぞれの不幸があるということは 我々にもわかっています」
「我々は ありとあらゆる地獄を見たいのです」
(『世界で一番、俺が〇〇』①より引用)
こんな物騒な台詞から始まる『世界で一番、俺が〇〇』(①~⑤以後続刊、水城せとな、講談社)は、現在『イブニング』で連載中の漫画。物語は、幼馴染のアラサー男子3人が「不幸比べ」ゲームに巻き込まれるところから始まる。
怪しげな「セカイ」という団体(?)から、「人間の『不幸』についてデータを収集したい」と言われ、【300日後3人のうちで最も不幸だった人間が、願いを叶えてもらえる】という契約を結ぶのだ。イケメンかつニートの通称アッシュ、外資系企業勤務ながら人間不信な柊吾、人はいいのにブラック企業勤めの通称たろ。不幸もそこそこに、のほほんとした幼馴染同士3人の「不幸」の行く末は? ……と、いう話だ。
しかし、最新刊5巻が、やばかった。
何がやばいって、詳しくはネタバレになってしまうので言えないのがもどかしいが、やばかった。
もう、みんな、全国民、読んでくれ、としか言いようがないのだが、やばかった。
我ながら書評家としてどうかと思う語彙のなくなりっぷりだが、やばかった。
まぁ5巻のやばさは置いておくにしても(誰か語らせてください)、『世界で一番、俺が〇〇』という漫画……水城せとなという作家は基本的にずっと「公正さ」を追及してきたのだよな、ということを再確認させられるような物語だった。
前にも述べたように、僕は何もしないで放っておくとじわじわ太っていく体質である。それとは対照的に、うちの奥さんはどれだけ食べても(量は食べないけど、何かあると甘いものを食べる)、運動をしなくても、太るということがまったくない。贅肉もつかない。そのことで僕はよく「人生は不公平だよな」と思ったものだった。ある人が努力しないことには得られないものを、ある人は努力しないでどんどん得ていく。(中略)
人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような「公正さ」に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。(『走ることについて語るときに僕の語ること』
(村上春樹、文春文庫)より引用)
上で突然引用したのは村上春樹の健康エッセイなのだけど、わたしはこの文章を読むといつも、水城せとなという作家のことを思う。
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