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このところ、名作を映画化したものを3本も見た。トルストイの『アンナ・カレーニナ』、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』、そしてフィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャッビー』。どれも世界に名だたる大作だ。
オペラの手法で魅せる斬新な演出
アンナ・カレーニナは、若いころから大好きで何度も読んだ。ただ、惚れ込んだ作品だけあって、どの登場人物もすでに私の中で顔があり、声があるので、映画を見に行くかどうか思い悩んだ。映画の後では、私が長年、大切に暖めてきた登場人物たちの顔も声も、一瞬で映画のそれに置き換わってしまう可能性があるからだ。
ただ、今回はなぜか私の持っていた彼らのイメージはそのまま保たれた。映画の登場人物の容姿が、あまりにも私の想像とはかけ離れていたからかもしれない。私のアンナはもっとふくよかで妖艶だ。そして、ヴロンスキーはもっと華麗。ただ、映画のキャストも、これはこれで十分に楽しめた。
とてつもなく面白かったのは演出だ。オペラの舞台そのものなのだ。幕まである。そして、舞台を見ていると思えば、それが現実のシーンに移り変わり、その現実のシーンで階段を上がっていくと、今度はオペラ座の舞台裏に出るとか、とにかくパッと色が変わるようにシーンが変わる。
華やかな舞踏会では、アンナとヴロンスキーが、彼らの運命を決めることになるダンスをしている。彼ら以外の人間はフェードアウトして、アンナとヴロンスキーの独壇場。その2人が、ときどき凍ったように静止する。まさにオペラの手法、あるいは、歌舞伎の見得切りである。
『アンナ・カレーニナ』の舞台背景は、フランス革命はとっくに終わっているものの、吹き始めた民主化の風は去らないといった時代だ。ロシアにはまだ革命の足音は聞こえてこないが、しかし、ロマノフ王朝は膠着し、あちこちで静かにひびが入り始めている。
そのロシアの官庁の場面が面白い。大きな部屋に学校のように机が並び、そこに座った大勢の役人が、音楽に合わせて皆でポンポコ、ポンポコとめくら判を押している。役人がいかに非効率で、無意味な仕事をしているかを象徴しているのだが、これも、まさにオペラの手法。
長年感じていたもやもやが晴れたような気分
さらに、アンナの夫、カレーニンの描き方が画期的だった。本の中のアンナは夫のことを、愛情のない、世間体だけを重んじる非人間的な男として疎んじ、さらには軽蔑するのだが、私はいつも、カレーニンのどこが悪いのかがよくわからなかった。
そもそも、世間体を重んじて何が悪い? それに、アンナに対する愛情がまるで無いようにも思えない。浮気をするわけでもない。ケチでもなければ、理不尽を言うわけでもない。どちらかと言うと、模範的な夫だ。彼は彼なりにアンナを深く愛しているか、あるいは、少なくともそう思い込んでいるはずだ。
もちろん、それでも嫌われるのはあり得ることだが、人間性を否定されるように言われるのは理不尽だ。あれはおそらく、アンナが自分の罪悪感をなだめるために、必死で夫の悪いところを強調しているのだろうというようなことを、かねがね思っていたのである。
つまり私の解釈では、アンナの不幸は、夫に何の落ち度もないのに、自分が夫を愛せないことに尽きる。彼は真面目で、神様にも、世間の規則にも逆らわない素直で善良で、しかも自己をしっかりコントロールできる人間だ。だから、アンナには勝ち目はない。その事実が、アンナをさらに絶望的にしていく。
今回とても驚いたのは、私のカレーニンのイメージが、そのまま再現されていたことだ。しかも最後のシーンは、カレーニンが、アンナとの間にできた息子と、アンナがヴロンスキーとの間に作った、血のつながりのまったくない娘を見守りながら、美しい草原にいるという幻想的なシーン。これを見ると、映画監督がカレーニンを、人間の感情を超越した大きな存在として描こうとしたのではないかと思えてくる。何となく、私が長年感じていたもやもやが晴れたような気分だ。
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