一月、東京にも雪が降る日がある。渋谷の雪はあっと言う間に人々にかき消されてしまうが、私のバーは少し裏手にあるためしばらくの間は雪見酒が楽しめる。
こんな雪の夜には、はかない音楽を聞きたくなり、レコード棚の前でしばらく考えた。
クロディーヌ・ロンジェというアメリカで女優、歌手として活躍したフランス人女性がいる。彼女がまだ無名の頃、ダンサーとして渡米し、ラスヴェガスで運転していた時、その車が故障で立ち往生し困っていたところに声をかけたのが、アメリカの大物歌手、アンディ・ウイリアムスだった。
その後、クロディーヌはアンディの助けでアメリカで女優、歌手として大活躍し、二人は結婚した。アメリカ、ラスヴェガスらしい映画のような良い話だ。
そんなクロディーヌが『ナッシング・トゥ・ルーズ』という切ないメロディの曲を歌っている。「失うものはない。でも得るものはたくさんある。もし愛がここにずっととどまってくれれば」という意味の歌だ。
そのクロディーヌのアルバムに針を置くと、ブルーの厚手のコートを着た三十代後半くらいの女性が扉を開けて入ってきた。雪の中を傘もささずに歩いてきたのだろう。ダッフルコートに降り積もった雪を入り口で払い落としている。
私がコートを脱がせると、中の白いセーターが、ほんのり上気した白い肌の彼女にとてもよく似合っていた。つぶらな瞳は真っ黒で、ひきこまれそうな魅力があった。
「雪、強くなってきましたか?」と聞くと、彼女は柔らかい声で「そうですね。たぶんこれからどんどん積もりそうです」と答えた。
彼女はカウンターの一番端の席に座ると、髪の毛を耳にかけながら「私、雪が降る寒い夜に、暖かいバーで冷えた白ワインを飲むのが大好きなんです。でも白ワインを注文する時、何か飲みやすいものとしか言えなくて。どういう風に伝えれば自分が好きなワインが出てきますか?」と聞く。
「ワインは本当に種類がたくさんあるから難しいですよね。一番いいのは以前飲んでおいしいと感じたワインの銘柄を伝えていただくことですよ。私たちはプロですから、お客様が飲んでおいしかった銘柄をうかがえば、それに似た味わいのワインをお出しできます」
「そうですか。でもワインの名前ってあまり覚えられなくて」
「携帯電話でラベルの写真を撮っておいて、『これがおいしかった』って見せていただいても大丈夫ですよ」
「なるほど。ではそうではないもっとスマートな頼み方ってありますか?」
「好きなブドウの品種を言っていただけると助かりますね」
「ブドウの品種ですか」
「例えば今日でしたら、雪にぴったりの白ワインを考えてみると、ちょっと白桃の香りがするリースリングなんてどうでしょうか。少し甘さを感じますが柔らかい酸味があるので桃をそのまま食べているみたいで、雪の夜にはぴったりですよ。そしてリースリングを覚えたら、次はシャルドネを覚えて、という感じで自分の好きなブドウの品種を探すのがいいかと思います」
彼女が「じゃあそのリースリングをください」と言ったので、私はアルザスのリースリングを開けた。
香りを楽しみやすいように私は大ぶりのワイングラスに注ぎ、彼女の前に出した。
彼女はリースリングに口をつけると、「ああ、本当だ。これは桃ですね。気品があるのに、チャーミングなところもあって、こんな女性になりたいですね」と言いながら話を始めた。
「彼とはよくあるダブル不倫だったんです。彼には中学生の娘さんが一人いて、私には小学校の高学年の息子が一人います。
私たちが知り合ったのは仕事を通じてでした。美術館のキュレーターだった彼が、【思い出の中の愛する女性だけを描き続けた画家】という企画を立てたんです。その展示会を紹介する記事を私が自社のホームページに書いたのがきっかけでした。
キュレーターの彼とは取材で会って、その後は何度かメールでやり取りしてそれで関係は終わるはずだったのですが、お互いなんとなく気になって、【いい記事も出来たし、お疲れさまってことでちょっと食事でもいかがですか】なんてメールが届いて、私も【いいですね】って軽い気持ちで返信しました。
広尾の小さいビストロで、鴨のコンフィに南フランスの赤ワインをあわせて、私たちはたくさん喋りました。私はこんなに自分のことを誰かに喋ったことは初めてでした。彼も自分のことを思う存分に喋りました。
仕事で会ったはずなのに、私たちには後から後から話したいことがとどまることなくあふれてきました。何を話しても楽しくて、私は広尾の小さいビストロでずっとずっとこのまま朝まで喋っていたいと思いました。
その夜、ずっと話しながら、お互いに二人は完全に出会うタイミングを間違えたってわかったんです」
「二人が結婚する前に出会ってたら良かったのにってことですか?」
「はい。でもこういう話ってマスターはよく聞いていますよね。私たちも今、お互いの夫婦間が倦怠期でちょっと刺激的な恋愛がしたいだけなんじゃないか、なんてことも考えたんです」
「でも違ったんですね」
「はい。これは本物の恋だとお互い確信しました。笑いのポイント、完全に息があった会話、食べる物や飲み物の好み、好きな音楽や作家まで何から何まで同じ気持ちだったんです。セックスどころかまだ手をつないでもいないのに深いところでわかりあえました。この人が本当の運命の人なんだってお互いが感じあっているのがはっきりとわかりました」
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