乳、帰る

作家・王谷晶さんの「女のカラダ」エッセイ連載がスタート!初回はズバリ「おっぱい」。おっぱいって、女にとって一体なんなんだ? 内と外から自らのおっぱいを見つめ、徒然なるままにタプタプしながら、王谷さんが考えることとは……。


女ひとり、自宅で乳を揉むときは

自宅にいるとき、私はたまに自分で自分の乳を揉んでいる。と書くといきなり淫靡な空気が漂うが、そのとき意識が向いているのは、揉まれている乳ではなく揉んでいる手のほうである。40年近く苦楽を共にした我が乳は今やすっかりカドが取れ、でろんとした柔らかさはどこまでも手に馴染んで心地よい。次に書くフレーズに詰まったとき、Netflixで怖いドキュメンタリーを見ているとき等、ほとんど無意識にこの乳の肉をタプタプさせて”場”をもたせている。落ち着くのだ。よくガチャガチャなんかで売っている柔らかいおもちゃ、スクイーズ。あれを揉んで遊んでいる感覚に近い。

女が乳を揉んでいるというのにその色気のない反応はなんだ、さてはお前は不感症だなと言う向きもあると思うが、乳というのは基本的に乳首以外の部分は腹の肉と感覚は違わない(例外な人ももちろんいる)。なのでスケベ映像やスケベ漫画などで肉の方を揉まれていい塩梅になっている描写は当然死ぬほど見ているが、普通にファンタジーの一環だなと思っている。ドラゴン、河童、魔法、揉まれて感じる乳の肉。みたいな。

と、いきなり乳を揉む話から始めてしまって誠に恐縮ですが、前々からそういう話がしたかった。そういう話というのは、肉体と、その肉体の持ち主だけが一対一で向き合う話だ。

女のカラダの使いみち

女の肉体について書かれたテキストは数多いが、だいたいは①エロ方面 ②美容・ファッション方面 ③健康・スピリチュアル方面 という3つのカテゴリのどれかに分けられると思う。

エロ、美容、健康。どれも「目的」がある話だ。マスターベーションのオカズや性行為に使えるか、いかに美しく見られるか、長生きするか、健やかな子供を生み育てられるか、魂のステージを上げるか。そういう、「どうやってカラダを何かの役に立てるか」という情報が、日々雑誌からTVからネットからそして人の口から、メントスを放り込んだコーラのようにぶしゃぶしゃと溢れ出てきている。肉体はそれを浴び続けている。

でも、その人の肉体は、その人のものだ。私の肉体は、私だけのものだ。自分の布団の上で朝ひとり目を覚ましたとき、そこにいるのは私と私の肉体だけだ。死ぬ瞬間にはセックスも美容も健康もどこかへすっ飛び、最後には自分の意識とその肉体だけがぽつんと存在し、そして終わる。自分の意識と自分の肉体が損も得も目的も無くただ一対一で向かい合う。人生にはその時間のほうが長いはずなのに、そのことについて話す機会ってあんまりないな、と常々思っていた。

何かの目的のためではなく、ただ自分の肉体を見たり触ったり考えたりしたい。何の役にも立たないカラダの話がしたい。

何の役にも立たないカラダ

なのでこのコラムは読んでもモテないし、美容の役には立たないし、痩せも太りもしないし、健康にもならない。魂のステージも上がりません。THE・無為。でも人の肉体なんてそもそも儚い。100年もすりゃどうせこれを書いてる人もアップしてる人も読んでる人もみんな死んでるのだ。無為こそ人のカラダの本質とは言えはしまいか。かの哲学者プラトンも「われらの現在の生は死であり、肉体はわれらにとりて墓場なり」つってるし。だから私も堂々と無為な話をしてギャラを貰いたいと思う。

おっぱいは誰のものか

というわけで第一回の議題は「おっぱい」です。乳房は女の肉体パーツの中でもとくに「他人目線」に晒されやすい部位だ。普通に服着て生活していても大きい小さい、垂れてる張ってる、感度がどうこうと勝手に頼んでもいない品評会の俎上に上げられやすく、場合によっては初対面の相手にすら乳房をネタに侮辱されたりする。他にも乳がん予防のためのあれこれとか、赤ちゃんに吸わせるためのなんとかとか、もちろん大事なことなのだけど、どうにも乳の持ち主である「本人」が置いてけぼりにされる話題に取り巻かれている。

故・月亭可朝師匠のヒット曲『嘆きのボイン』が象徴的だ。「♪ボインはぁ~赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~~お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」から始まるあの曲。名曲だけど、間違っている。ボインは赤ちゃんが吸うためにあるのでも、ましてやお父ちゃんのためにあるのでもない。ボインがくっついてる本体である女のためにあるのだ。なぜボインの話をするとき、本体は蚊帳の外に置かれやすいのか。

乳房に貼られているモノ

あまりにも、あまりにも長い間ボインはいろいろなことの象徴として扱われ過ぎてきた。エロの象徴、母性の象徴、女性そのものの記号化。そういうのが女のおっぱいにはベタベタと、差し押さえの張り紙のように貼り付けられてしまっている。物心つく頃から社会一丸となって貼り付けてくるこれらのレッテルを避けて暮らすのは難しいし、剥がすのもまた困難。自分の乳房を自分で見た時ですら、ぱっと思い浮かぶ言葉が先に挙げた「性・審美・健康」のどれか以外であることが難しい。

自分の乳に自分でニプレスならぬレッテルを貼るのは、むなしい。全裸になっても肉体に余計なものがくっついているというのは、気持ちが悪い。せめて自分くらいは、自分の乳房に何も貼らずに対峙してやりたい。お前はただの私の肉体だと言ってやりたい。

無意味は楽しい

いろんな役割や妄想を勝手に背負わされ、特定の疾患にも罹りやすいというやっかいな性質を持っている乳だが、一度その社会的意味や機能性や特徴を頭の中から追い出して、ただ見つめてみてほしい。ゲシュタルト崩壊を起こすほどに見つめてみれば、乳から意味が剥がれ落ちてくる。するとそこにあるのは紛れもない、ただの自分の肉体の一部だ。

意味を無くした乳に、自分で意味なく触れてみる。それは「女が自分の乳房に触れる」というフレーズから導き出されるいろんなイメージ(エロさ、自己検診、脱毛など)から開放された、無意味な行動だ。無意味という言葉にもマイナスなイメージがつきまとうけれど、無意味って自由だ。理由の説明も言い訳もいらない。だって意味が無いんだから。

なので自宅でぼんやり無心に自分の乳を揉んでいる時間というのは、私にとって乳を真に自由を感じる、肉体を我が物として扱う大事な時間でもある。いやマジで。

自分の乳は、自分の肉体は自分のものだと思えていると、人から肉体についてウザいことを言われてもケッと思える。落ち込む前に反撃できる。あんたがあたしの乳の何を知ってるって言うんだい。こいつはあたしだけの相棒だよ。そう思える。なのでもっともっと、自分と肉体の間に無為で無意味な関係を構築していきたい。何の役に立たなくてもいい。誰を楽しませなくてもいい。乳よ、お前は私だけの肉体だ。

人のはやっぱり揉んでしまう

余談だが私は女と寝る女なので、自分以外の乳とも幾度か対峙してきた経験がある。基本的に大きな機能は変わらない肉体同士なので、当然相手も乳の肉と腹の肉の感覚に大差はないことを知っているが、それでも「揉んでもよし」と言われると興奮と共に揉んでしまうのは、私の脳内にもまだ剥がしきれないおっぱいレッテルがあるのだなと忸怩たる気分になる。毎回。無為を極めるのも難しい。ちなみに相手もだいたい「人のはやっぱり揉んでしまう」と言う。「肉を揉まれたところでなあ……」と思っている同士が揉みあっているわけで、この行動はあまりにややこしいので「人の業」というフレーズで片付けておきたい。

この連載について

どうせカラダが目当てでしょ

王谷晶

脱・ライフハック! 脱・ヘルシー! ウェルカム非生産! 「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ?」女子なら一度はかけられる呪い。でもその美しさって本当は誰のためのもの? “女と女が主人公”の短編集『完璧じゃない、あたしたち』が...もっと読む

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コメント

kyoa 気づいたら太ももをぽちゃぽちゃしてて「これかー!」ってなった 無意識だった 1日前 replyretweetfavorite

manchinpiece なんとなくテレビなど見ながら玉袋を弄るのと同じかな 6日前 replyretweetfavorite

kia_ruruten 「たまに自分で自分の乳を揉んでいる」「無意識にこの乳の肉をタプタプさせて”場”をもたせている」自分のは揉むほど無いので、猫のお腹のたるみをタプタプさせています。 https://t.co/3Ek0rn14zJ 6日前 replyretweetfavorite

sotto_motto ちょうよかった。 https://t.co/mwFti57hx3 7日前 replyretweetfavorite