村上春樹の読み方『羊をめぐる冒険』前編

3週にわたって掲載した特別編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』評も終わり、finalventさんの書評は再び村上春樹の初期作の世界へ。『風の歌を聴け』評『1993年のピンボール』評に続いては『羊をめぐる冒険』。より深い理解をえるため、ぜひ前2作の評論を読んでからお読みください。

村上春樹初の長編小説


羊をめぐる冒険(上) 講談社文庫

 日本国内の村上春樹文学の読者にとって、1982年に発表された『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)は、彼の第三作目の作品であると同時に、通称「鼠三部作」の終結部として理解されている。しかし海外、特に日本に先んじて村上春樹の文学的評価が確立した欧米圏では、事実上の処女作とみなされ、彼自身もその了解を受け入れている。彼はまた初期二作を若書きとして後の作品系列から外し、作家の思い出の対象以外では伏せておきたいともしているようだ。その点については『風の歌を聴け』評でも触れた。

【第20回】村上春樹の読み方『風の歌を聴け』前編

 こうした背景が読解に微妙な影響を与える。『羊をめぐる冒険』は連作としての意味と、後の村上春樹文学にとって初期二作を方向転換した新しい原点としての意味がある。

 この作品の、原点としての特徴は長編であることだ。粗野な比較になるが、普及している文庫本のページ数で見ると、『風の歌を聴け』(講談社文庫)は168ページで、『1973年のピンボール』(講談社文庫)は192ページ。対して『羊をめぐる冒険』は上巻が268ページで下巻が264ページ。初期二作を合本にしても360ページだが、この作品は532ページもあり、約1.5倍の長さになっている。

 長編である理由は、この作品の執筆から村上春樹は専業作家を志向したからだ。初期二作はジャズ喫茶の店主仕事のかたわら深夜のキッチンで書いた、いわば余技であったが、『羊をめぐる冒険』は本格的な作家であることを世に問う作品であり、なによりその力量を示すために長編であることが当初から意図されていた。さらに『風の歌を聴け』で解消されなかった主題が『1973年のピンボール』に持ち越されてもなお十分に解消できず、これら二作のような短めの中編小説の限界も感じていたに違いない。

 長編化に当たって工夫されたことは、読者を飽きさせない筋立てとして、エンタテイメント的な仕掛けが導入されたことだ。このため『羊をめぐる冒険』は推理小説やファンタジー小説のような特徴も備えている。半面、エンタテインメント性を強調しすぎると大衆作家と見られることにもなりかねない。村上春樹自身は作品がどのように受容されてもかまわないという決意はあっただろうが、それでもエンタテインメント作品を創作したいわけではないし、主題もその枠組みで扱えるものではない。

村上春樹に影響を与えたもの

 そこで当時の国際的な純文学を意識した工夫が加えられた。具体的には、ポストモダン文学としてのトマス・ピンチョンの作品やガルシア・マルケスのマジックリアリズムのような趣向、さらに初期作品からのユーモア基調としてのカート・ヴォネガットの作品などからの影響が見られる。

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