東京時代には想像つかなかった今の暮らし
「なぜパン屋になったのですか?」とよく聞かれます。「できることを全部集めて店にしました」と答えていますが、自分のルーツが明らかにならないとわかりにくいので、略歴を2回に渡って紹介しています。今回はその2回目。
静岡から東京へ
東京に出てきてからは生きていくことに必死になった。なにしろ前回書いたように生活費も学費も全部自分で工面しなければならない。生活を維持しながら専門学校に通い、さらに遊ぶ金も欲しいとなれば、働くことを増やすしかなかない。3つのアルバイトを掛け持ちしながら夜間の専門学校に通うという高校の延長のような生活を続けていた。学校が終わると新宿のモスバーガーで朝方まで働き、始発の電車で眠りながら横浜のアパートに帰り、お昼頃から原宿のイタリアンレストランで働いた。学校が休みの日は、アパートの近くの居酒屋で働いていた。
今思い出すとあの頃、なぜこれをやり通せたのかわからない。これだけのエネルギーが湧いてきたのが不思議でしょうがない。若いってすごい。
DJになりたい
東京は刺激的で静岡にはないものがたくさんあった。その中のひとつが音楽。クラブにハマって、どんどん音楽に傾倒していった。専門学校を卒業した20歳の頃、DJで食べていく決意をして、30歳まで10年間やってダメだったら諦めようと考えた。初めて「なりたいもの」が見つかって嬉しかったDJの世界。調べていくと、人気DJのアシスタントから始まって、その内にイベントで前座を任され、徐々に階段を登っていくのがスタンダードだということがわかった。途中で脱落する人もいるが、それは運やタイミングに左右されることが多いようにも見えた。それはファッションの世界にとても似ていて、ヒエラルキーの世界だった。
結局、考えた末に、素人にもかかわらず自分でイベントを立ち上げることにした。ヒエラルキーの世界で我慢する自信がなかったし、とりあえずやってみたいという気持ちが優った。クラブで出会った友人たちに声をかけて、1回目の酷いイベントを終えると、もっとよくしたいという気持ちが湧き上がりまたイベントを開催した。イベントをオーガナイズして定期的に行ないながら、昼間は友達に紹介してもらったファッション系の雑誌の編集部でアルバイトをした。アルバイト代はレコード代に消えることが殆どで、DJの練習、アルバイト、イベントの開催の3つにひたすら明け暮れる日が続いた。そんな時に、また一つ転機が訪れた。
25歳頃の自分。DJのことばかり考えていた。
何でもできるすごい箱
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