アニー・ホール 
僕は現実が嫌いだ

番外(「京都大学へ、村上春樹に会いにいく」前篇後編)を挟んでの連載第4回目です! 今回、伊藤聡さんが紹介するのは、ウディ・アレンと彼の代表作『アニー・ホール』。多くの賞を獲得したこの作品と、そこで監督・脚本・主演をこなしたウディ・アレンの個性をより知るのに最適なエッセイをお楽しみください。

すばらしい作品を生み出す作者が、実生活では人格が破綻しているといったことはめずらしくない。傑作をつくり上げる豊かな才能の持ち主は、同時に、救いがたいろくでなしであったりもする。

ドストエフスキーは賭博中毒で、身内からだらしなく借金を重ねたあげく、いままでに書いた全作品の著作権をはした金で売り渡してしまった。フィッツジェラルドは注目を浴びるのが何より好きで、新聞のゴシップ欄に自分の記事がないことに腹を立て、ホテルのロビーでとつぜん逆立ちをしてみせ「これを記事にしろ」と記者に迫った。同様に、森の奥にキャビンを建てて暮らし、その周囲を高さ2mのフェンスで囲って誰にも会おうとしなかったサリンジャーや、暴力行為で繰りかえし警察のやっかいになり、留置場を出たところで息子の出産を知らされた坂口安吾もかなりいい線を行っている。

彼らのような破綻者にとって、創作とはある種の治癒行為であり、正気を保ちつつ生きていくために何としても必要なものだった。その切実さこそが、彼らの作品を輝かせているようにも見える。ドストエフスキーよりすぐれた作品を書ける小説家を僕は知らないが、もし彼が「もうすぐ所用で日本へ行くから、一週間ほど君の家に泊まらせてくれないかな」と連絡してきたら、きっと僕は口ごもりつつも、「えーと、いま自宅のシャワーが調子悪くてですね」「甥っ子の虫歯がひどいんです」などといいかげんな理由をつけて断ってしまうとおもう。あんなおじさんが近くにいたら、いろいろとめんどうな事態になりそうで気が進まないのだ。

ウディ・アレンが多作なのは、映画製作に関わっているあいだは現実から逃避できるためだと本人は説明している。彼のフィルモグラフィはコンスタントで、製作が途切れることがほとんどなく、長いキャリアを通して見てもほぼ年1本に近いペースで映画を発表しつづけているが、それはアレン本人が、映画に携わっている間だけは製作に没頭でき、ややこしい現実を直視せずにいられるからだという。このエピソードは、アレンという作家の重要なエッセンスを示してはいないだろうか。

僕は彼のことを、創作意欲がいつまで経っても衰えないパワフルな映画監督といったていどに考えていたのだが、インタビューの言葉から見えてくる実際のアレンは、それほどに単純ではなかった。彼は映画を作っていないとどうにかなってしまうのである。作品を撮ることで「カメラの向こうの映画の世界に逃げ込んで生きてきた」(*1)この映画監督にとっても、創作は不可欠な治癒であり、ゆえに製作を止めるわけにはいかなかったのだ。

近年のアレンは、ロンドンやパリ、バルセロナといった土地を舞台にした、のんきな観光映画を軽い感じで撮るおじいさんといった見方をされることが多い。しかし実際のところ、彼は70歳をすぎた現在でもさまざまな苦悩を抱えながら表現する作者なのである。みずからを「欠点が多く、芸術家としても人間としても限界があり、毛嫌いするものも多く、変人で、芸術家気取り」(*2)と認識し、ベッドシーツの素材をポリエステルから綿に変えるだけでも、セラピストとの入念な打ち合わせが必要なほどに神経質なこの男性(*3)は、彼なりの生きづらさを抱え、小さなことでくよくよと悩み、ときには周囲にとてつもない迷惑をかけながら、ただひたすら製作に取り組みつづけているのだ。

アレンと十数年に渡って交際し、最悪のかたちで決裂へと至る過程をすべて暴露した、女優ミア・ファローの激烈な自伝『去りゆくものたち』(集英社)を読んだとき、アレンという人は、いっけん明るく愉快そうなその風貌とは相反してさまざまな精神的な重荷を抱えて生きているのだなと感じた。

ミア・ファロー自伝 去りゆくものたち
ミア・ファロー自伝 去りゆくものたち

映画ファンには有名な話なので知っている方も多いとはおもうが、アレンは十数年に渡って実質的な夫婦に近い関係があったミア・ファローの養子である、スン=イという35歳下の女性と性的関係を持ち、スキャンダルになったことがある(その後アレンとスン=イは結婚した)。むろんこの一件で世間はひっくり返り、アレンはスキャンダルの当事者としてずいぶんややこしい目に会った。92年のことだ。

詳細は省くが、いくら養子とはいえ、ミアにとっては法律上の娘である。夫婦同然に暮らしてきた男性が自分の子どもに手を出したら、どれほど傷つくかは説明不要だろう。彼女の暴露本も大きな話題になった。いくらアレンの映画が大好きな僕であっても、この件だけは弁護のしようがない。ミアの自伝に書かれたアレンの言動はあんまりにひどすぎて、正直あきれてしまった。

ミアの自伝には、付録としてアレンと裁判で争った内容をすべて記した「判決全文」がついており、いかに彼女の怒りが激しいかを示している。みずからの尊厳を不当に貶められた者が、最終的にどのような感情を抱くに到るかが、この本を読むと本当によくわかるのだ。それにしても「夏の星座早見盤」や「アリの巣観察セット」以外にも、本にはさまざまな付録がつくものだなと僕はおもった。読んでいるうちに、彼女が抱えた怒りと絶望が伝染してくるように感じ、こちらまでどうにかなってしまいそうだった。

生きていれば、不可避的に誰かを傷つけてしまうことはあるだろうけれど、ここまでひとりの人を苦しめる権利がどこの誰にあるのだろうか? パートナーだと信頼している男性の部屋から、自分の娘のあられもない裸の写真が出てきたら、それは誰だってびっくりするに決まっている。だいたい、どうして写真をきちんとしまっておかなかったんだ。人目のつく場所に置きっぱなしって、ただのばかじゃないか。そこだけは、ちゃんとしてほしかったんだよ。アレンはその後、写真を返せとミアに何度も詰め寄ることになるが、そんなやっかいなものを無造作に置いておく方が悪いに決まっている。私生活で問題の多い小説家や映画俳優など掃いて捨てるほどいると知っていたのに、アレンは映画のキャラクターが持つ温和なイメージがどうしても頭から離れず、実際の言動とのギャップが意外だったのだ。

『ウディ・アレンの映画術』(清流出版)の著者エリック・ラックスは、アレンに対し「あなたのキャリアの問題点は、観客がスクリーン上のあなたと現実のあなたを同一視することで、あらゆることがその一点に集約されるのではないですか」(*4)ときわめて的確な指摘をしている。まさしくこの状態こそが、ウディ・アレンという作者の本質を見えにくくしている最大の要因なのだ。彼がキャリアを通して作り上げてきた、「ウディ・アレン」という虚構のキャラクター。ミアが言うように、映画のなかの彼は「情にもろい正直者で、なんとも憎めない意気地なし。洞察力は鋭いけれど、相手を怖じ気づかせるようなところはまったくない、愛すべきインテリ」であると同時に、「要するに、現実のウディ・アレンとは似ても似つかぬ人物」(*5)なのだ。

現実のアレンはまったく、あんな男ではないのである。むろん、映画と現実は違うなんて当たり前のことだが、こうして文字に起こされたものを読むまで、僕自身、フィクションと現実のアレンを混同していたことに気がついた。だからこそ、ミアの自伝で描かれる日常的なアレンの姿に勝手に驚いてしまっていたのである。

アレンの代表作『アニー・ホール』(’77)はまさに、観客がスクリーン上のアレンと現実のアレンをおもわず同一視してしまうようなしかけに満ちた映画である。本作でアレンが演じるコメディアン、アルビー・シンガーこそ、これぞアレン作品の主人公という見本のようなキャラクターだ。あれこれと理屈ばかりこね、ときおり身勝手なふるまいで観客を苦笑させ、見た目はぱっとしないくせに、その危うげな態度に女性はつい「放っておけない」と世話を焼きたくなってしまう。アレンは実際に、ダイアン・キートンやミア・ファローといった美しい女優たちと恋愛関係にあり、彼女らから受け取ったインスピレーションを作品に反映させていたから、観客はさらに映画と現実のアレンと同一視することになる。

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およそ120分の祝祭 最新映画レビュー

伊藤聡

誰しもが名前は知っているようなメジャーな映画について、その意外な一面や思わぬ楽しみ方を綴る「およそ120分の祝祭」。ポップコーンへ手をのばしながらスクリーンに目をこらす――そんな幸福な気分で味わってほしい、ブロガーの伊藤聡さんによる連...もっと読む

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コメント

mic_03 いま秋のサブカル拗らせ祭りを開催してて、一本目が 3年以上前 replyretweetfavorite

okbc99 「あなたのキャリアの問題点は、観客がスクリーン上のあなたと現実のあなたを同一視することで、あらゆることがその一点に集約されるのではないですか」 5年弱前 replyretweetfavorite

sanbonsugi ウディ・アレンの話。「どうして映画みたいに人生がうまくいかないのか理解できないんだ。」 5年弱前 replyretweetfavorite

campintheair 1時間だけ無料で読めます。僕なりに考えたウディ・アレン論です。アクセスしてみてくださいね。/ 【06/11 21:01まで無料 】 5年弱前 replyretweetfavorite