『□』と小説のルール
佐々木 『アメリカの夜』から『インディヴィジュアル・プロジェクション』までが第一期で、その後から『ピストルズ』までが第二期、そして今、第三期が始まっている、批評家的に言ってしまうと、僕にはそういうイメージがあるのですが、『□(しかく)』は『クエーサー』をさらに上回るリーダビリティを持っていて、なおかつ物語自体も、やりたい放題やってますよね。今まで阿部さんが発表してきた小説のどれとも明らかに違う、相当変な小説だと思います。
阿部 先ほども申し上げた通り、ぼくはあらかじめ小説の全体像を組み立てた上で書いていくのですが、しかし、『ピストルズ』を書いた後で、自分の手法のマンネリ化が気になってきました。そのような書き方で発想できる物語や作品のスタイルというのは、限定されてしまうところがある。そこで、今度はいっそのこと、何も決めずに書いてみたのが、『□(しかく)』という作品です。
また、『□』は初期衝動を取り戻すという試みでもありました。来年(2014年)でデビュー二十周年になるんですけども、千枚超えの長編を二つも書いてしまうと、だいたいいろんなことができるようになり、マンネリ化も余計に気になってくる。そんな状態で、さらなる大きな変化を、とか考えると、いっそ初期衝動のまま勢いで書いてたところまで戻さないといけないような気がしてしまったわけです。
ただ、何も決めずに書くというふうに決めても何も決めないわけにはいかない。最低限のことは事前に決めました。まず、季刊誌「真夜中」への一年間の連載ということで、全四回、それも春夏秋冬と季節ごとである。そうすると必然的に思いつくのが、「四」という数字です。そこで、四回で一サイクルだから、四角というふうに決まっていった。何かそういう、非常にプリミティブな発想から、物語を組み立てていきました。
それで『□(しかく)』というタイトルを決めたときにはもう頭の中には漠然とは四角、四回で、拷問と監禁、という内容が浮かんでいた。というのも、この十年ぐらい書き溜めていた短編小説を今年の秋に短編集として単行本にまとめることになり、あらためて振り返ってみる機会があったんです。そうすると、ぼくはずっと監禁と拷問ばっかり書いてきてるなと思ったんですね(笑)。その自分自身の不自由さを、あえて逆手に取って、書いてみようと思ったのです。
何も決めずに書くということは、自由に書くということだと思うのですが、フィクションの中で自由に書くというのはどういうことなんだろうと考えました。この「自由」というのがなかなか厄介な問題で、つまり、たとえ自由に書くと言っても、小説では、現実社会の、実社会のルールに即して登場人物たちは振る舞ってしまうものです。別にフィクションの中でも信号が赤だから停まらなきゃいけないなんていう理由はないはずだけども、でも、やっぱりみんな現実のルールを守って登場人物を行動させているわけですね。それは、できるだけ実社会のルールが共有されているほうが、読者が物語を追いやすいからという事情もある。だから、効率の面からすると、フィクションの上でも実社会のルールに即して物語は進展していったほうがいいと理解できます。でも、自分なりに自由にやろうと決めたからには、実社会にはないようなルールを小説内社会では動かしてみようかなと思ったのです。
だから、死者がよみがえったりとか、パーツを集めると生き返らせるみたいな、ゲーム性があったりとか、カニバリズムが横行しているとか、そんなことになったのです。その結果、ぼくが書いてきたこれまでの作品とは、見え方が相当に違う作品になったかもしれませんね。
佐々木 映画のたとえで言うと、『シンセミア』がフィルムノワールで、『ピストルズ』がニューシネマだったとしたら、『クエーサーと13番目の柱』はスパイもので、『□』は完全にホラーですよね。
阿部 初期衝動重視で書いていったので、素の自分に一番近いのはそれなのかもしれません。ぼくが人生の中で、一番回数見ている映画が『ゾンビ』だっていうのが決定的なのかもしれませんね(笑)。
別のインタビューでもちょっとお話ししたんですけども、『□(しかく)』は、これまでの作品以上に、自分自身の無意識が素朴に出ているところがあるはずなので、初めて書いた私小説なのかもしれません(笑)。
佐々木 『□』がですか(笑)。『□』は夢中になって読みました。めちゃくゃちゃ面白かったんだけど、同時にラストがあまりにも謎でした。起きていることがわからないということじゃなくて、起きていることがなぜそのようにして起こらねばならないのかがわからないという感覚は、それは実は阿部さんの小説のエンディングによくあると思うんですね。『クエーサーと13番目の柱』もそうだと思うんです。『ミステリアス・セッティング』もそう。『ミステリアス・セッティング』と『クエーサーと13番目の柱』はよく似ていると思います。要するに或る奇跡が起きる、その奇跡が起きるには何らかのルールがあって、このルールが揃うと奇跡が起きるということになってるんだけど、なんでそういうルールなのかということは必ずしも明示されない。
阿部 世間一般の感覚というのが仮にあるのだとすれば、たぶんそこに、宗教というのが一個だけ入ってれば、その善し悪しはともかく、多くの人に納得してもらえる物語になるのかもしれませんね。でも、ぼくの作品には宗教がないからわけがわからないのだと思います。
佐々木 まさにそうだと思います。神町なのに神がいない世界なんですよね。
阿部 M・ナイト・シャマラン監督の『サイン』から信仰のドラマを抜いたのが阿部和重の作品だというふうに読めば、辻褄が合うんじゃないかな。
佐々木 シャマランにとって一番重要かもしれない要素を抜いているということですね。
来るべき第三部について
佐々木 なんだかまるで、『ピストルズ』でやり遂げた、神町トリロジー終わっちゃったみたいな感じですが(笑)、もちろん第三部が残っているわけですね。 しかも『ピストルズ』を書き終えたことによって新たなモードが始まっているとすると、その流れで、十年以上前に構想していた三部作の最終章に、これから着手することになるわけですよね。
阿部 はい。
佐々木 となると、新たなモードはもともとの構想に何がしか影響を及ぼさざるを得ないのか、それともそういうことじゃなく、三作目はこういう作品であるとあらかじめ決めてある以上は、あくまでもそれをやるということになるのか……ぼくの勝手な推理を言いますと、『シンセミア』と『ピストルズ』が二ヵ月連続で文庫化されるわけじゃないですか。ということは第三部が、ちょうどそれぐらいのタイミングで連載が始まる、という流れができているのかなと。
阿部 そういう予告ができたらとてもきれいだったんですけども……『ピストルズ』を最後までお読みいただければ、今年、まさに二〇一三年がどうやら物語の舞台になりそうであるということは予告されているので、今年から書き始めるというのはすでに多くの場でお話ししてきたし、実際そのつもりでいるんですが、ちょっとまだ準備が終わってないというか、また例によって参考文献がたくさんあってですね。
佐々木 スタートのための下準備が、まだ完全には終わってないと。
阿部 ただ、二〇一三年の物語なので、どうしても今年の状況をある程度見通してからでないと書けないという事情もある。下手したら物語自体、まったく成り立たないという可能性も……ただ、それでも構わないんですけどね。現実社会とフィクションは別なので。
佐々木 となると、神町トリロジーの完結は、もうしばらく先になる?
阿部 連載開始から本になるまで、『シンセミア』が四年、『ピストルズ』が三年かかったので、次はせめて二年にはおさめたいなと。
佐々木 それでも気になるのは、三部作の第三部はどういう小説になるのか。話の流れは、『ピストルズ』まで読んでると、推測できる部分はあるわけですよね。けれども、『シンセミア』と『ピストルズ』がまったく違ったタイプの小説であったということを考えると、第三部も間違いなく、第一部とも第二部とも違ったタイプの小説になるだろう。ぼくが最も楽しみにしてる部分はそこなんです。もちろん言うわけにいかないだろうと思うんですが、何かちょっとだけ教えてもらえませんか(笑)。
阿部 だいぶハードルが上がってしまったので、正直ぼくも、全然違ったものをまた書きますよと確約するのが、自分で恐ろしいんです。終わらせるという意味で言えば、もしかしたら『シンセミア』や『ピストルズ』よりも楽かもしれないなとは思うんです。しかし、そこにおさめるいろんな要素を考えると、町自体はちっちゃいけども、ものすごく規模が大きくなっちゃうので、まずそこをしっかり物語に全部おさめないといけないなというのがあって、それはそれでけっこう大変かもなと。
佐々木 でも本当に、三部作の構想から考えると十年以上、デビューから考えるとおよそ二十年近くになっているので、当然若い読者がどんどん出て来ているわけですよね。その人たちが文庫という単行本よりも買いやすい形で『シンセミア』と『ピストルズ』を読んで、ワクワクしながら第三部を待望するという流れが、今後できていくといいと思います。
阿部 ありがとうございます。ぼく自身もそれを期待しています。
(おわり)